【記事】歴史一覧
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信玄は、「小田井原の戦い」で一方的な勝利を修め、討ち取った三千もの上杉軍の首印を、そのまま、志賀城の包囲陣に運ばせ、城の周りに棚を掛けて、並べさせた。
さらに、城へと続く水の手を切り、干し殺しの城攻めを行なった。
命綱である水の供給が断たれ、さらには、頼りの後詰の援軍が、無残な姿で晒されている光景を目の当たりにした志賀城の篭城兵たちは、俄かに戦意を喪失した。 -
この「幻の戦い」の原型は、おそらく、天文十六年の八月の信州・佐久地方の志賀城攻めの際に行われた「小田井原の合戦」であろうと見られている。
もともと、武田家は信虎時代から、佐久地方に侵攻し、一日に三十六もの城を落とすなどの破竹の快進撃を行なっていた。
この地域のうち、南佐久を治める在地領主の大井氏は、早々に恭順の意を示したことから、信虎を追放して家督を継いだ信玄は、侵略の矛先を佐久から諏訪に変更した。 -
武田家の戦記において、勘助の名が初めて具体的に登場するのは、天文十五年(一五四六)に、佐久侵攻を企てた上杉憲政の軍勢を十月六日に碓氷(笛吹)峠で撃退した合戦である。
実は、この合戦は、『甲陽軍鑑』以外の確実な史料では、まったく確認出来ないこと、さらには『甲陽軍鑑』の記述そのものに、年代や事実誤認の根本的な誤りがあることなどから、「幻の合戦」と呼ばれているものである。 -
当初は、「城取り」の名人として武田家に採用された山本勘助の面目を躍如するかのように、信玄の信州攻略における重要な戦略拠点には、勘助が縄張りをしたとされる城が存在する。
北信の海津城、中信の小諸城、南信の深志城、そして、信州伊那の高遠城である。
これらの城の特徴は、それぞれ、信玄が勘助に命じて、新築したり、あるいは、既存の城を武田の城に改造した拠点であるが、いずれも、自然地形を巧みに防御に取り入れている。 -
『甲陽軍鑑』のこの時期の記述には、山本勘助の名は登場しないものの、その仕事ぶりを示す「物的証拠」は、今日にまで残っている。
そのことを説明する前に、当時の情勢を簡単に解説しておこう。
諏訪頼重を滅ぼした信玄は、その遺領を二分し、半分を諏訪氏攻略に協力してくれた高遠頼継に渡し、残り半分を自らが領有した。 -
勘助が武田家の被官になったのは、まさにこれから、武田家が信州に侵攻しようとしていた時期であり、そのための人材として、採用されたことは、これまで見てきた通りである。
では、具体的に主な合戦記録を見てみよう。
当時、すでに諏訪を前線基地として押えていた武田軍は、この地を足掛かりに、まず、信州・小県郡長門の長窪城攻略戦を開始する。 -
本文中の繰り返しになるが、上杉謙信という男は、実際、何を考えているのか、把握しずらい面が多くあったようだ。
生涯不犯、毘沙門天信仰、義の人、キレやすい性格、唯我独尊等々……。
これらの信仰やポリシー、性格や性質は、大なり、小なり、誰にでもあることだが、それが人智を超えたレベルであったり、もはや、狂気ともいえる状況に足を踏み入れていた場合、そういう上司を戴く部下の苦労は計り知れないものがあったことは、想像に難くない。 -
大乱戦の中、手薄となった信玄の本陣に謙信が斬り込みを掛けた。
川中島の戦いを描いた絵画や銅像では、行人包みの僧体の謙信が、放生月毛の馬に跨がり、名刀・小豆長光を振り上げて床机に座る信玄に三太刀にわたって斬りつけている。
これを信玄は軍配で凌ぐも肩先を負傷し、「あわや!」というところに、信玄の旗本が駆けつけたため、謙信はやむなく撤退している。 -
天文十二年当時、すでに老境に足を踏み入れていた山本勘助と、暴君と呼ばれた父・信虎を駿河に追放したばかりの信玄との出会いは、お互いにとって、まさに僥倖とも呼べる巡り合わせだった。
けれども、当時の状況を客観的に見ると、浪人の勘助の側のみならず、信玄にとっても、お互いを必要とせざるを得ない、厳しい環境に置かれていたことは否めない。 -
江戸時代から、その実在については、疑問視されていた山本勘助であるが、その一方で、今なお、そのファンは多い。
その理由は、いくつか、あるのだろうが、何よりもまず、彼の信玄に対する忠義を貫いた生き様が、多くの日本人の共感を呼ぶのだろう。
その姿勢は、どこか、あの「武蔵坊弁慶」に通じるものがあるのかもしれない。 -
このように、信玄にとって諏訪侵攻は、その後の版図拡大路線の第一歩であり、その成功のためには、ほとんどだまし討ちに近い形で、諏訪頼重を自害させ、その領土を強奪した。
実は、諏訪頼重の正室には、信玄の妹の禰々(ねね)が輿入れしており。信玄にとっては、妹婿を謀殺した形となったのである。 -
『甲陽軍鑑』に記載によれば、山本勘助は信玄に面会した当初から、その才能を見抜かれ、知行三百貫の「足軽隊将」に登用されている。
この「足軽隊将」とは、配下に七十五人の部下を与えられた実戦部隊であり、武田家譜代の家臣ではなく、その実力を買われて、他国から招聘されたり、浪人から登用されたものたちである。 -
兵力に勝る上杉軍が殺到した武田軍の本隊は、防戦一方の凄絶な戦闘を繰り広げた。
特に、上杉方の三部隊が集中的に押し寄せた武田信繁隊は、壊滅的な被害を蒙り、信玄の弟である信繁は、壮絶な戦死を遂げた。
この信繁の横で、二の手の備をしていた諸角豊後守も、信繁の戦死を目の当たりにして、「我もお供つかまつらん」と、敵陣に切り込んで悲壮な最期を遂げた。 -
『甲陽軍鑑』に描かれた、「諏訪御料人」の処遇に関する勘助の適切な進言を見てみよう。
品 二十四 「諏訪頼重誅される事」からの現代語訳である。
「天文十三年甲辰二月に、晴信公は信州諏訪に出陣なされた。この時、板垣信方の戦略で、諏訪頼重との間で和睦が成立し、頼重は甲府に出仕することになった。(中略)その後、晴信公は頼重を成敗なされた結果、頼重が治めていた諏訪勢は、悉く晴信公の 敵となり、ふたたび反旗を翻した」 -
いつの世にも、既存の組織や人間関係は、新参者やよそ者には排他的な態度で接するものである。特に、己の既得権益や地位が脅かされるという危機意識を覚えた場合は、彼らの攻撃は、一層激しさを増し、新入りを組織から早々に叩き出そうとする。
勘助の場合も、その半生を費やして体得した豊富な知識や経験を己の付加価値として、古くからの甲斐の守護職の武田家に仕官を求めたわけであるから、その反発も強かった。
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