2016.05.10
モバイルビジネス最前線 Web Designing 2016年5月号
Eight:スタートアップ企業の新規事業もたらすイノベーションと価値創造 「Sansan」が生み出した大ヒット名刺管理サービスができるまで
新規事業は、時に「企業内起業」と呼ばれる。新しい収益を作るだけでなく、既存組織に新しい価値想像やイノベーションをもたらすからだ。既存事業の強みを活用して成功した大ヒット名刺管理サービス「Eight」の開発の裏側を聞いた。企業内起業ならではともいえる、着実で一本気なイノベーション創造の物語だ。
「ホントに無料?」と思わず驚くアプリ
ビジネスマンが名刺を探し出すのに割く時間は、1カ月に1時間36分にも上るという(※1)。つまり、年間では約20時間だ。この無駄を解決しようと、古くから多くの名刺管理ツールが開発されてきた。しかし、名刺のデジタル化には解決し難い二つの問題があった。一つは入力が面倒であること。スキャナの進歩や文字認識ソフトの精度向上は目覚ましいが、目視確認による情報入力・修正は欠かせない。もう一つは名刺情報には賞味期限があること。せっかく手間暇かけても、異動や転職、事務所移転などによって情報が変化するため、定期メンテナンスが欠かせない。
「Eight」は、こうした名刺管理の問題を解決するスマホアプリだ。リリース以来成長を続けており、ユーザーは100万を超える。人気の理由は、無料とは思えないほど徹底された利便性にある。ユーザーが行うのは、アプリで名刺を撮影するだけだ。スキャナを使えば、名刺の撮影すら必要ない。また、自分の名刺情報も登録・管理するため、Eight上で繋がった相手には情報更新のたびに自動的に通知される。2015年には繋がっている人々へのフィード配信機能、今年3月にはアプリだけで名刺交換できる機能を実装した。
「名刺管理ツールは、あらゆる面で、ものすごく大変なサービスです。だから、いかにやり切るかなんです」(Sansan(株)取締役 Eight事業部長 塩見賢治氏)
しかも驚くことにこのアプリ、真の提供価値は名刺管理ではないという。では、何なのだろう?
※1 Sansan(株)発表「名刺に関する実態調査2015」より
SansanとEightはベース技術から違う
Eightを開発・運営するSansan(株)は、企業向けに名刺管理と顧客管理のサービス「Sansan」(会社名と同名)を提供している。どんな差があるのだろうか。
「Eightが目指しているのは、オンラインのビジネスネットワーキングです。その起点として、名刺管理の機能を提供しています。顧客管理に名刺を活用するSansanでは『名刺は会社の資産』、一方のEightは『名刺は個人のネットワーク』と謳っています。こうした考え方の違いだけでなく、開発言語からデータベース、開発スタイルも違う、別の事業なんです」(塩見氏)
Eightは名刺をビジネスソーシャルグラフの起点と考え、それをオンライン化することでFacebookやLinkedinなどとは異なる価値を提供するビジネスネットワーキングサービスを作れると目論んでいる。それが事業のコアバリューだ。その基盤となる、個人による名刺管理機能を先にお披露目したわけだ。もともと名刺を扱う企業だけに、特別なこだわりがあった。
「名刺管理はけっこう面倒な作業なので、『単に便利』というだけではダメだと思いました。愛されるプロダクトにならなくてはなりません。UIやUX、アプリの挙動を何度も見直し、リリース後も試行錯誤を重ねました」(塩見氏)
プロジェクトスタートの翌年2012年春にはHTML5で開発してiOS版とAndroid版のアプリをリリースしたが、満足のいく完成度に達せず、フルネイティブ版の開発に着手し、2013年春に世に送り出した。
「これで行けそうという雰囲気を感じられたのは、このバージョンからです」(塩見氏)
手応えを感じてなお、「愛される」ようにチューニングを重ね、改善を重ねた。
参入障壁は「難問の膨大さ」
見えない工夫もたくさんある。たとえば名刺情報の入力。人力では1時間に20枚程度が限度だという。
「Eightで交換される名刺の数は年間1億枚。仮にすべて外注すると50億円のコストになります」(塩見氏)
これに加えて、個人情報管理の問題をクリアしなくてはならない。この課題は、Sansanが特許を取得しているセキュリティとコストを両立させる人力入力のしくみを利用してカバーしている(12)。ほかにも、登録した本人情報と名刺を受け取った側の情報に不一致がある場合の処理、汚れや誤植があった場合の処理など、細かい課題は数え切れない。しかし、一定の水準を満たさないと「愛されるサービス」は成立しない。Eightは、早期にこれらの難所を乗り越えてたどり着いた。競合アプリが次々現れては撤退していくのを見て、その大変さを改めて実感するという。
「名刺管理サービスは誰もが思いつくのですが、やり切るのが本当に大変なんですよ。私も生まれ変わったら、もう名刺の仕事はやりたくないです(笑)」(塩見氏)
他社とのエコシステム
基盤構築の次は横展開だ。2014年には、リアル空間での名刺スキャンサービスを始めた。コワーキングスペースや喫茶店に専用スキャナを設置して無料でスキャンできる環境を提供した(13)ほか、カメラ店で有料のスキャン代行サービスも展開した。2015年には、(株)PFUのスキャナ「ScanSnap」のクラウド機能に接続し、手軽に登録できる手段を強固にした。こうしたエコシステム構築によって、参入障壁をさらに高くすることに成功している。
本命の「ビジネスネットワーキング」へ
名刺管理機能が整った2015年夏、満を持してビジネスネットワーク機能が投入された。開発を進めながら、リーンスタートアップの手法やB2Cサービス構築、スマホアプリ制作のノウハウなど、それまでのSansanになかった機能・知見・文化を取り込んできた。
Eight事業がビジネスネットワークにイノベーションを産み出すのはこれからだが、すでに事業開発を通じて社内に蓄積されたノウハウは少なくない。これらは、「CTM」(Corporate Technology Meeting)と名付けられた社内会議や、人材を通じて、既存事業にフィードバックされている。
素直なチーム文化と成長
現在、Eightの運営は、塩見氏を筆頭に、10名の企画チームと20名の開発チームが並ぶ。2015年末からは、チーム運営にGoogleが実践する「OKR」(Objective Key Results)というマネジメント手法を導入した。トップのメッセージを施策に落とし込み、メンバー個々の仕事の目的を明確にすることで判断をクリアにし、生産性を高めるという手法だ。
「まず教科書通りにやってみて、四半期で成果をレビューします。導入直後ですが、効果が出ていると感じています」(塩見氏)
新しい価値の創造をビジョンとして掲げながら、PDCAを回す段階ではあらゆる知見を参照して生産性の向上を目指し、チャレンジを継続する。こうした真面目でイノセントな取り組みが、他社の追随を許さない事業基盤を作ってきたのだろう。サービスとしてのEightも、チームとしてのEightも、この粘りをどういう成果につなげていくのか、機会を見てまた取材させてもらいたい。