山崎震一 | マイナビブックス

100冊以上のマイナビ電子書籍が会員登録で試し読みできる

山崎震一(やまざきしんいち)

昭和32年千葉県立東葛飾高校卒業、昭和38年日本医科大学卒、関東逓信病院(現NTT東日本関東病院)でインターン、昭和39年日本医科大学第二外科入局、昭和46年医学博士取得。日本外科学会認定医(前)、日本大腸肛門学会会員(前)、日本消化器内視鏡学会会員(現)、産業医、ブログ「邪馬台国二元論」2011年5月14日。

記事一覧

  • 【第3回】英国を中心とした外国政府の、当時の日本に対する情勢分析(2)

    書名: 「アーネスト・サトウの見た明治維新」

    • 文芸
    • 無料公開中

    1864年9月8日、長州藩が和議を請うために、伊藤俊介の案内で、使節代表宍戸刑馬(高杉晋作)ら3名が来艦(ユーリアラス号)する。艦上に来た時、高杉晋作はLucifer(魔王、坂田は悪魔と訳している)のような高慢な態度をとっていたが、徐々に態度を変え、すべての提案をなんら反対することなく承諾した。

  • 【第2回】英国を中心とした外国政府の、当時の日本に対する情勢分析(1)

    書名: 「アーネスト・サトウの見た明治維新」

    • 文芸
    • 無料公開中

    回顧録によると、主権者たる将軍と、2、3の手に負えぬ大名との間の、政治的な闘争である。これは、将軍が無力で、その閣老が無能なため、宗主たる将軍家を無視するに至った結果である。そして、神聖な日本の国土を〝夷狄〟の足で侵させ、貿易による利得を、すべて国家の領主たる将軍家の手に収めようとしている。それはまた、ペリーの日米和親条約(1854年3月、安政元年)と、後のハリスが結んだ日米修好通商条約(1858年6月、安政5年)に対する不満を抱いた闘争であると。

  • 【第1回】要約

    書名: 「アーネスト・サトウの見た明治維新」

    • 文芸
    • 無料公開中

    日本語を操る幕末の英国外交官サトウは、佐藤でなくSatowである。てっきり日本人との間の二世かと早合点していたが、シナと日本の通訳生3名の外交官試験に、トップで合格した正真正銘の英国外交官である。薩摩英国戦争や長州との下関戦争にも通訳官として参戦し、また、関東以西の各地(四国、九州まで)を英国公使代理の名代で、駕篭や馬に乗り、藩主の大名たちを訪問する。

  • 【第0回】はじめに

    書名: 「アーネスト・サトウの見た明治維新」

    • 文芸
    • 無料公開中

    日本は徳川幕府による238年の間、限りなき太平の夢をむさぼっていた。サトウの言葉を借りれば、日本は森の中に眠れる美姫にも似ていた。国家太平の夢を守る役職の人たちは、姫の安眠を妨げるハエを、扇で追うよりも容易な仕事をしていたのである。 姫の夢が、活動的で旺盛な、西洋人の出現によって破られた時、昔からのしきたりに凝り固まった、年老いて皺くちゃの番人たちには、その職責には耐えられなくなった。そのために、日本を取り巻く、様々に変化する情勢にうまく対応できる、もっと適任な人たちに自分の席を譲らなければならなくなったのである。