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【検索結果】"ナリタマサヒロ "の一覧

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  • 歴史

    【第10回】勘助の築城理論

    勘助の築城理論の講義は、まだまだ続く。
    「総じて、城攻めの戦術によく応じた(防御術に長けた)城は、本来は千人規模で守るべき想定であるところを五百人の軍勢で守ったにしても、攻め落とすのは難しい」
    「逆に、悪い構えの城は、五百人で守るべきところに、千五百人で守ったにしても、多勢の効果はなく、多大な損害を蒙るものです」

  • 歴史

    【第9回】『甲陽軍鑑』の中の第一次「川中島の戦い」

    『甲陽軍鑑』の記述が出てきたところで、同じく、勘助が信玄に問われて、謙信の人物についてコメントしているパートがあるので、ご紹介しておこう。
    『甲陽軍鑑』の最大の欠点は、合戦の年代や記述に誤りが多いという点であることは、改めて説明するまでもないだろう。
    この第一次「川中島の戦い」についても、品二十八の「村上義清、越後、長尾景虎に頼まるる事 (並)上田原、同年信州海野平合戦等の事」にて、天文十六年のことと、史実よりも六年早めて記述している。

  • 歴史

    【第9回】武田流築城術の要

    信玄と勘助の問答は、さらに続いている。
    信玄が問う。
    「城に立て篭もる利点は、敵にとって攻めづらくなることだ。攻めるに堅く、篭り守るに易い、両面に優れた仕組みはあるのか?」
    勘助が申し上げる。

  • 歴史

    【第9回】「山本勘助」的存在とは?

    これまで見てきた通り、「山本勘助」という天才軍師の存在は、その見極めが非常に難しいのが現状である。
    しかし、それでは話が進まないし、何より、「山本勘助は実在しなかった!」では、歴史を語るロマンが失われてしまう。
    そこで、一つ、筆者から提案致したい。

  • 歴史

    【第8回】信玄と謙信

    謙信という男は、学校生活に例えていえば、誰も担任や学級委員の言うことを聞かないクラスでありながら、学級委員の他薦を受けたことにより、その気になって立候補し、就任したクラス委員長のような武将である。
    本人はそれなりに体格もよく、喧嘩も強いわけであるが、何よりも正義を信じ、他人に頼まれたら、どんなことでも二つ返事で引き受ける超優等生であった。

  • 歴史

    【第8回】勘助の実践論

    再び、『甲陽軍鑑』品 二十五の「晴信公、山本勘助問答ならびに信州戸石合戦の事」での勘助の回答に注目してみよう。
    信玄に「どういう築城法を学んだのか?」の問いに対して、勘助はこう答えている。
    「城を構える縄張りについては、いろいろと流儀があります。関東では、太田道灌流がもっとも評判になっていますが、すでにかなり昔の事ですので、現在では、その技法をしっかりと理解しているものは、いないようです」

  • 歴史

    【第8回】「山本管助」≒「山本勘助」

    この『市川文書』の出現により、「山本菅助」なる名前の武田家の重臣が存在していたこと、そして、この人物が信玄の口上を伝令する重臣であったことは、史実として、証明されたわけである。
    けれども、我々には、やはり、一つの素朴な疑問が残る。
    それは、果たして、この「山本管助」が、「山本勘助」を指しているのだろうか? という点に尽きる。

  • 歴史

    【第7回】上杉謙信という男

    かくして、半ば、運命の糸に導かれるように、信玄と謙信は、四度、この信州・川中島の地で、竜虎相まみえる結果となった。
    謙信にしてみれば、もはや自分は関東管領職であり、その栄誉にふさわしく、武家の棟梁・源頼朝以来の鎌倉・鶴岡八幡宮への参拝もこなした身である。
    もはや、川中島という局地の争奪戦に執着するよりも、室町幕府の要職である関東管領職に相応しく、越後一国の領土安泰よりも、関東全域に平和をもたらさなければならないと本気で信じていたに違いない。

  • 歴史

    【第7回】信玄の実践主義

    築城技術者として、武田家に中途採用された勘助は、攻城戦などの実戦ばかりではなく、築城理論についても、信玄に詳しくレクチャーをしている。
    その内容は、今日的な視点で見ても、非常に興味深いので、ここで紹介したいと思う。
    『甲陽軍鑑』品 二十五の「晴信公、山本勘助問答ならびに信州戸石合戦の事」よりの現代語訳である。

  • 歴史

    【第7回】逆転! 山本勘助は実在した!!

    ところが、昭和四四年(一九六九年)に、NHKの大河ドラマで「天と地と」が放映されると、北海道釧路市在住の視聴者から、自宅に伝わる古文書の鑑定依頼が寄せられた。
    この視聴者の先祖は、武田家の家臣であり、後に米沢藩士となり、さらに明治時代には、屯田兵として北海道へ移住した由緒があったことから、この古文書は『市川文書』として新たな論争を呼ぶきっかけとなった。

  • 歴史

    【第6回】シガラミの「川中島」

    この「川中島の戦い」に関する基本的なパターンを見れば、北信濃の支配を主張する武田の領土に、越後から上杉勢が侵攻するのを受けて、武田軍が甲斐より急行するという展開がメインである。
    謙信にしてみれば、先に触れたとおり、高梨氏などの同盟関係にある北信濃の国人衆より泣き付かれ、彼らの旧領を回復するという大義名分を掲げて、堂々と武田領内に侵攻しているのである。

  • 歴史

    【第6回】勘助の実力

    信濃攻略を開始した信玄にとって、最大の悩みは、築城技術者の不足であった。
    しかし、その悩みも山本勘助という、不世出の逸材を採用することによって、克服することが出来た。
    先の家老衆を集めての会議が、天文十二年の正月三日であったのに対して、勘助が駿河より招かれたのは、三月のことである。この時点では、知行百貫の口約束であった。

  • 歴史

    【第6回】山本勘助は実在しなかった!

    では、ここで山本勘助という「軍師」の人物像について、詳しく検証してみよう。
    山本勘助といえば、二〇〇七年のNHK大河ドラマ『風林火山』で主人公として、脚光を浴びたことは、私たちの記憶に新しい。
    特に、〝越後の龍〟こと上杉謙信と、〝甲斐の虎〟こと武田信玄が、互いに雌雄を決しようとした「第四次・川中島の戦い」において、自らが招いた戦略ミスの責任を取る形で、戦場の露と消えた悲劇的な末路とあいまって、その生き様は、多くの小説やドラマ、映画などで繰り返し描かれている。

  • 歴史

    【第5回】「城取り」の達人

    「陣取り」という言葉のニュアンスにも含まれるとおり、「○○取り」という言葉には、広く、グランドデザインを設計する行為が含まれている。
    武田信玄にとって、新たに領土拡大を行なうには、敵の領内の城を落とし、その城を武田の城として、新領土を支配する要として、整備する必要があった。
    それゆえ、武田の宿老の1人であり、信虎追放の首謀者でもあった板垣信方が、駿河の国よりスカウトしたのが、山本勘助だったのである。

  • 歴史

    【第5回】「軍事研究」事始

    さて、この「軍師」であるが、実のところ、その存在自体がフィクションに近いと見做されている厳しい現実がそこにある。
    なぜなら、「軍師」とは、天下泰平の世となった江戸時代以降に、武士階級の教養として、広く嗜まれた軍事研究、すなわち「軍学」における一種の武士の理想像だったからである。
    この「軍学」とは、戦場における戦術・戦略などの戦闘法を指す「兵法」や、難攻不落の城を築くテクニックである「築城術」などを体系化し、研究された「軍事学」である。

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