教育・医療・Biz iOS導入事例

先進事例から考える「医療現場にICTを普及するための課題」

文●朽木誠一郎

Apple的目線で読み解く。教育の現場におけるアップル製品の導入事例をレポート。

2015年、医療従事者に3200台超のiPhoneを提供し、ICTへの取り組みの先進事例となった東京慈恵会医科大学。導入から1年が経過した今、施策の狙いだった「病院業務の効率化」はどのくらい実現できているのか。また、医療現場へのICTの導入にはどんな障壁があるのだろうか。

 

 

国策としてのICT活用

政府が2014年に閣議決定した「健康・医療戦略」には“ICTの利活用の促進”が明記されており、医療現場へのICTの導入はいわば国策だ。「高騰する医療費を削減しつつ、医療の質は維持及び向上させる」という難しい局面に置かれた日本社会において、ICTはそれを打開する有効な手段でもある。しかし、いまだにICTが日本の医療現場に普及しているとは言い難い。

そんな現状にあって、東京慈恵会医科大学が2015年、3200台超のiPhone 6を東京・港区の本院とすべての分院に導入したのは、ICT利活用の先進事例といえる。従来の医療現場の通信連絡手段といえば、PHSが一般的。同大学が院内PHSの契約更新を検討するタイミングに、古い外来棟の建て直しや東京オリンピックに向けた学内のICT化の方針決定などが重なり、スマートフォンの導入に踏み切った。

医療スタッフに配るデバイスとしてiPhoneが選ばれた理由には、「iOSのほうが使用するアプリの開発が進んでいたこと」や「モデルチェンジをしても操作性が大きく変わらないこと」などが挙げられていた。

加えて、これは医科学系の教育や研究の場にMacユーザが多いことと無関係ではないだろう。ICTプロジェクトのリーダーを務めている同大学・先端医療情報技術研究講座准教授の髙尾洋之医師の話によると、アップル製品を形容する際の決まり文句ともいえる“直感的な操作性”も導入の理由であるという。高尾医師はパワーポイント以前のスライド作成ソフトである「アルダス・パースエイション(Aldus Persuation)」時代からのMacユーザだ。

 

 

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東京慈恵会医科大学の公式WEBサイト。2015年に本院とすべての分院に3200台超のiPhone 6(16GB)を導入した。【URL】http://www.jikei.ac.jp/univ/index.html

 

 

導入までのさまざまな困難

しかし、そもそもスマートフォンの導入自体が、医療現場としては異例の決定だ。これまでPHSが一般的だったのは、携帯電話の電波が医療機器に与える影響を懸念してのこと。一方、2014年には総務省などを構成員とする電波環境協議会により「医療機関における携帯電話等の使用に関する指針」で医療機器にごく接近(密着など)して使用しない限りは影響がないと報告されており、現在使用を制限する理由にはなっていない。

同大学附属病院では、携帯電話の使用を、ルールを取り決めたうえで柔軟に許可している。院内には無料Wi-Fiスポットがあるほどだ。それにも関わらず、実際に医療現場へiPhoneを導入することには「さまざまな困難があった」と高尾医師はいう。

「医療現場へのICT導入で、問題になりやすいのは個人情報。たとえば、電子カルテは完全にクローズドなネットワーク上にデータベースが存在しています。しかし、iPhoneを導入したことによって、病院という個人情報の保管場所に外とつながる穴を開けてしまったという見方もできる。もちろん、各デバイスはMDM(モバイルデバイス管理)ツールにより、かなりの機能を制限されてはいるのですが」

実際、院内iPhoneで使用できるアプリは極端に少ない。通話やメモは利用可能だが、メーラやブラウザはMDMツールが提供するもののみで、同機能の純正アプリは起動できない。ちなみに、カメラは「摘出した腫瘍などの写真を撮りたい」というニーズに応えて、医師のみ撮影可能(データの取り出しは不可)になっている。

高尾医師はもともと厚生労働省の医政局で医療情報システムの安全管理を担当していた、いわばセキュリティの専門家だ。iPhoneの導入にあたっては、PHS時代に存在しなかった利用規約の作成や、リテラシー教育の実施に取り組んできた。しかし、それでも「iPhoneを紛失した場合などのリスクを完全に排除することは難しい」と高尾医師はいう。

すべてのデバイスは同大学内の担当部署より一元管理されていて、もちろん遠隔で機能を停止することもできるが、「長期休暇期間中の紛失にはどう対応するのか」といった指摘もあったという。

「突っ込みどころはいくらでもあると思います。新しいことを始めているのだから、当たり前ですよね。予想外のことはほかにもたくさんあって、たとえば、iOSのアップデートもその1つ。これは正直、アップデートの通知が来てはじめて対応の必要性を認識しました。このように、やってみないとわからないことは確かにあります。しかし、ICTによって得られるメリットのほうがはるかに大きい。だから、そこは毅然として対応するしかありません」

 

 

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東京慈恵会医科大学・先端医療情報技術研究講座准教授の髙尾洋之医師。

 

 

一番のネックは“人的コスト”

では、iPhone導入により、具体的にどのような点が便利になったのか。高尾医師はまず、医療スタッフの情報の“見える化”を挙げる。各端末には勤務する約1800人の医師の顔写真と名前、所属などの情報が登録されている。

「今までは同じ病院に勤務していても、別の診療科の医師の顔と名前が一致しないことがよくありました。現在はすべての医師の情報が見える化されているので、申し送り時などのコミュニケーションロスが大きく減っています」

また、この院内iPhoneには、従来は小冊子の形で同大学附属病院の医療従事者に配布されていたアクシデントマニュアルや感染制御マニュアルが、アプリとしてインストールされている。すなわち、これまでのようにマニュアルをポケットなどに入れて持ち歩く必要はない。

ほかにも、高尾医師が構想段階から開発に携わった「ジョイン(Join)」という医療従事者向けのコミュニケーションアプリがある。LINEのようなチャット機能では、日常的な業務連絡だけでなく、X線写真やCT・MRIの画像を共有し、専門医のアドバイスをもらうことができる。さらに、院内の手術室のライブ映像や特定の患者のバイタルサイン(心電図など)を遠隔で確認することも可能だ。

このようにいいことばかりであれば、すぐにでも同大学のような事例が一般的になりそうなものだが、「全国の医療現場にICTが普及するのは少し先になる」とのこと。ICT普及を妨げる要因について、高尾医師はこう説明する。

「何をするにしても、抵抗勢力というのはあります。特に医療現場において新しい試みをする場合、論点は大きく分けて、セキュリティ・お金・人の負担の3つです。このうち、セキュリティはテクノロジーと倫理的なリテラシー教育で解決できます。お金は企業と交渉すればいい。実際、今回のiPhoneの大規模導入が実現したのは、NTTドコモの協力のおかげでもあります。でも、人の負担だけは減らせない。これが一番のネックです」

同大学では2016年12月に共同プレス発表会として、同大学のICTへの取り組みと、スマートフォンの持ち運びを前提にした「スマホ白衣」・病院の会計をオンライン決済する「病院アプリ(仮称)」・スマホアプリやペッパー(Pepper)による「院内ナビゲーションシステム(仮称)」など、ICT医療の最前線について発表がなされた。「病院アプリ」は同大学附属病院でも導入の機運があったが、まだ実現していない。

「なぜかというのは単純で、大学組織内ではこのような形態を担当する部署が定まっていない場合が多いからです。会計にかかる時間が短くなることで、患者さんが便利になるのは明らかですが、それによって生じる人的コストの負担先が見つからない。医療現場のICT導入がなかなか進まないのは、意外とこんな理由だったりします」

医療現場はもともと、病気やケガといった人間のパーソナルな部分に深く関わる性質上、閉鎖的な環境だった。そこにICTというオープンなものが持ち込まれたとき、それに付いてこられない人が多いのは仕方のないことではある。しかし、ICT医療は時代の要請だ。現場の問題を解決できるテクノロジーがあるにも関わらず、それを活用せずに看過するのは、“仁術”といわれる医療の精神に反する行為ともいえる。

目先のコストが心理的なハードルとなり、本来必要な議論が妨げられているのであれば、それを再び進めるためには「便利になる」というゴールがわかりやすく伝わらなければいけない。わかりやすく伝える手段とは、すなわちデザインである。そう考えると、同大学が導入したのがiPhoneだったということは、“アップルデザイン”が医療に貢献する未来を示唆しているのかもしれない。

 

 

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医療スタッフに配られているiPhoneは、MDMツールによって機能が制限されている。メーラやWEBブラウザもMDMツールが提供するアプリのみ利用可能だ。

 

 

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各端末には、慈恵大学附属病院に勤務する約1800人の医師の顔写真や名前などが登録されており、スタッフ間のコミュニケーションがよりスムースに行われている。

 

 

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iPhoneの基本的な使い方、病院アプリのマニュアルはマニュアル作成ツール「Teachme Biz」を利用することによってiPhoneで閲覧できるようになっている。

 

 

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ソフトウェアとして国内ではじめて保険適用が認められたアプリである「Join」。医療従事者向けのチャット機能や手術室内の映像をリアルタイムで共有する機能などを備えている。



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