【第2回】奥信濃を流れて下る千曲川 | マイナビブックス

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信州学ライブラリー1

【第2回】奥信濃を流れて下る千曲川

2016.10.26 | 市川健夫

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通船が盛んだった千曲川

 千曲市屋代で長野盆地に入った千曲川は、河川勾配が九〇〇分の一から一〇〇〇分の一となり、川船はゆったりと航行した。ところが、川が長丘丘陵を穿(かん)(にゅう)蛇行して流れるようになると、(はざま)という集落名が示すように急流になる。ところが中野市の古牧(本来は腰巻)橋を過ぎると、再び緩流になり、飯山市の柏尾橋の間は六〇〇分の一の勾配になる。そこで千曲川は油を流したように下っていく。したがって舟運には適しており、明治の初めには最大七五石(一一・三トン)の帆船が航行していた。

 千曲川通船は上田と信越国境近くの西大滝湊の間を往復していたが、島崎藤村が『千曲川のスケッチ』を書いた明治三〇年代には信越本線は全通していた。そこで藤村は小諸から汽車に乗り、豊野駅で下車した。しかし当時飯山鉄道(大正十年飯山まで開通)はなかったので、蟹沢(現長野市豊野町)湊で飯山行きの船に乗った。その時の通船事情については、『千曲川のスケッチ』の「川船」の章に詳しい。藤村は「私達は雪の積った崖に添うて乗場の方へ降りた。屋根の低い川船で、人々はいずれも膝を突き合わせて乗った。水に響く艪の音、屋根の上を歩きながらの船頭の話声、そんなものがノンキな感じを与える。(中略)午後の日ざしの加減で、対岸の山々が紫がかった灰色の影を水に映して見せる。私は船窓を開けて、つぶやくような波の音を聞いたり、舷にあたる水を眺めたりして行った。」などと書いている。

 当時千曲川の客船は日に二回の定期運行であった。白い帆を張った川船が上下したが、川を遡るときの曳き子は、急流では八人、緩流では四人が必要であった。

 飯山の河港は現在中央橋が架かっている千曲川の左岸に、大きな(けやき)の木があり、そこが飯山港であった。船の発着で港は活気であふれ、「入船亭」という料亭さえあった。千曲川の通船は第二次世界大戦後の一九四九年(昭和二十四)まであった。豪雪で鉄道が不通になっても、水量の豊かな千曲川は凍結することがなかったので、一九二五年(大正十四)鉄道が森宮野原駅まで開通した後も、通船は運行されていた。

 千曲川に架けられた橋の多くは、腰巻橋のように戦後まで舟橋であった。また(むし)()、七ヶ巻(野沢温泉村市川地区)のように、橋がなくて渡し舟が連絡していたところもあった。しかし一九八三年(昭和五十八)に七ヶ巻の渡しが廃止されて、千曲川水系の渡し舟はなくなった。ところが、二〇〇七年(平成十九)に休日に限って七ヶ巻の渡し舟が復活された。

世界有数の豪雪地帯

 千曲川下流域は、世界有数の豪雪地帯のため、年間を通じて流水量は豊富である。冬に西高東低の気圧配置になると、北西季節風が日本海沿岸を流れる(あお)(しお)()(しま)海流)から大量の水分を吸収し、北アルプス・妙高火山群・東(くび)()丘陵などの背梁山脈で強制上昇させられ、日本海側に多量の降雪をもたらす。これが山雪で、海岸から三〇~四〇キロメートルの地域に最も雪が多い。一九四五年(昭和二十)二月三日森宮野原駅では七八五センチメートルの積雪を記録した。これは、人間の生活空間としては新潟県上越市板倉区(から)(やま)(八一八センチメートル)に次ぐ記録である。飯山線は昭和十九年十二月二十日から翌二十年四月二十五日まで、一二七日間も不通になった。

 このような降雪・積雪に対応して、北陸地方には独特の雪文化が発達している。長野県における北陸型気候区と中央高地型気候区の境界は、中野市の高社山と大町市の中綱湖を結ぶ線である。この線から以北の信越国境地域が北陸的風土である。JR飯山線でいうと、(はちす)駅から以北に積雪が多い。

 伝統的な農家は中門造りが基本で、屋根から下ろした雪を左右に分けて、中門からの出入りの便を図っている。屋根はカヤ葺きの寄棟造りで、積雪の重力に耐えうる構造になっている。なお中門がカヤ葺きの入母屋屋根造りを(うまや)中門といい、トタン葺きの切妻屋根の造りを(あずま)中門と呼んでいるが、前者の方が伝統的な建築である。また町屋で(がん)()を設けているのは、信州では飯山の町並みのみである。蕎麦切りの繫ぎには小麦粉を使えないので、キク科の野草、オヤマボクチの葉の繊維や青森県下北半島産の()海苔を使っている。これは越後の食文化が、奥信濃に伝播していることを示している。また(ちまき)・笹餅・笹寿司など、(くま)笹の葉を用いた食品やエゴ海苔料理も、越後から伝播している。

飯山盆地の原風景

 飯山盆地は長野盆地以上に緩流で、千曲川が蛇行しているために、自然堤防や河川敷が発達している。ここでは江戸初期から長野盆地と同じ菜種と綿花という高度な商品作物が栽培されていた。「菜の花畠に入日薄れ」という唱歌「(おぼろ)月夜」は、明治二〇年代の飯山あたりの田園風景がうたわれている。二十世紀初めの産業革命期に、菜種と綿花の栽培は衰退したが、戦後野沢菜が全国に作られるようになってから、飯山市瑞穂地区や北竜湖畔で、採種用野沢菜の栽培がなされ、多くの観光客を誘っている。菜の花畑は江戸時代「()(がね)島」と呼ばれていたが、その美しさは今でも変わりがない。飯山盆地常盤地区では、畳表の原料となる()(ぐさ)や「常盤(ときわ)()(ぼう)」の特産地であった。第二次世界大戦後は藺草の生産が消滅したことは惜しまれる。

 飯山は江戸時代本田氏二万石の城下町であった。飯山城は一五七七年(天正五)に上杉謙信が武田信玄の侵攻に備えて築城した。断崖で千曲川に面し、西方山地の分離丘陵の上に造られた飯山城は、要害堅固であった。市街地の西方の山麓は寺町で、飯山に二八ある寺の多くはここに立地している。寺町の門前、(あた)()町には仏壇店が軒を連ねている。一年を通じて湿度が高い飯山地方は、漆塗りである仏壇製造に適しており、高級仏壇が生産されている。

 飯山地方では「内山紙」という手漉き和紙が作られている。原料のコウゾを雪に晒し漂白を行う。化学薬品を使わずに、丈夫な和紙が生産されている。

信越国境ではなく、越後川口まで千曲川

 現在、信越国境の宮野原橋で、千曲川は信濃川と名を変える。しかし、河川法が施行される一八九六年(明治二十九)まで、越後川口で魚野川と合流するまでが千曲川であった。千曲川の延長は二一四キロメートルであるが、川口までならば二六一キロメートルになる。『北越雪譜』の中で鈴木牧之は、「千隈河」は魚野川との合流点までとしている。このように十日町盆地は千曲川流域と考えた方が合理的だと思われる。

 信濃川本川の舟運は新潟から十日町、魚野川の通船は六日町(現南魚沼市)までであった。十日町と西大滝間には七つの「滝」という集落名がある。これは岩盤が出ており、早瀬になっている。そこでは舟運が不能で、駄馬・駄牛で荷が運ばれていた。新潟から送られてくる塩と直江津から運ばれてくる塩の接点が、栄村役場のある森の千曲川対岸にある塩尻である。現在、塩尻集落は二戸しかないが、かつては一〇戸ほどが生活していた。

 旧水内村・堺村(現栄村)・岡山村(現飯山市)では、戦後まで十日町の出機があり、縮や上布などの高級織物を地機で織っていた。千曲川に沿った谷街道によって、信越交流が活発に行われていたことを示している。

 中野市立ヶ花あたりから、JR飯山駅と国道一一七号は千曲川に沿って走っている。それを意識してか、飯山線の客車は千曲川の景観がよく見えるように座席の配置がなされている。九三キロメートルにも及ぶ間、千曲川という大河と付き合いながら下る川旅も結構楽しいものである。

(『千曲川草誌』第三号、二〇〇四年)

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