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信州学ライブラリー1

【第1回】善光寺平を流れる千曲川―肥沃な沖積平地―

2016.09.27 | 市川健夫

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沖積平地が発達している善光寺平

 甲武信ヶ岳を源に発する千曲川は、佐久平・上田盆地を流れ、坂城(こう)(こく)を経て千曲市屋代で、善光寺平(長野盆地)に入る。このあたりから千曲川は大きく蛇行して流れる。堤外地にある河川敷は幅五〇〇メートルになり、川の沿岸には自然堤防が発達している。

 屋代・埴生など千曲市の中心集落は、いずれも千曲川がつくった自然堤防の上に立地している。中でも()(ぐち)では最高四メートルほどの石垣を築き、その上に土蔵造りの「(みず)()」が建てられている。中に入ると天井に滑車がつけられているが、これは浸水した場合、味噌桶を吊りあげるための施設である。濃尾平野の輪中集落にみられる景観が、牛島(長野市若穂)をはじめ、千曲川沿岸の各地にみられる。

 河川敷に対する自然堤防の比高は、四メートル以上に達しているところもある。千曲市八幡の(たけ)(みず)(わけ)神社は、千曲川の沖積段丘上にあるが、この微地形を意識して古代の先人たちが社をつくったに違いない。

 千曲川の河床勾配は、屋代あたりから九〇〇分の一という緩勾配になり、犀川と合流する落合から小布施あたりまでは一〇〇〇分の一になる。また河川敷の幅は屋代で五〇〇メートル、小布施で一キロメートルにも達する。信濃川の河口の新潟で四〇〇メートル程度であり、善光寺平を流れる千曲川は、全国的にみても有数の大河になっているのである。

千曲川沖積地の土地利用

 千曲川の自然堤防や河川敷は、江戸中期から明治中期の農業革命まで、その多くは菜種畑であった。菜の花が黄色に咲くので、「()(がね)島」と呼ばれていた。小布施や須坂では菜種から種油が搾られ、杉の樽につめられて江戸まで送られていた。群馬県吾妻郡嬬恋村と上田市真田町の境にある鳥居峠は、江戸時代「油峠」と呼ばれたほど、種油の輸送が盛んであった。大笹街道を運ばれた油は、倉賀野湊(高崎市)から(からす)川・利根川・江戸川の舟運を使って、江戸に輸送されていった。菜種の表作には綿花が栽培されていた。綿花は最も肥料を要求する作物である。肥沃な千曲川の自然堤防では、綿花が適作物であった。上高井郡日野村(現須坂市)では、畑の五割までが綿作であった。また種粕が綿花の肥料に用いられるなど、綿作と菜種栽培は共生関係にあった。綿花は()綿(わた)(くり)綿―(しの)(まき)―綿糸―綿布という工程を経て、商品化されていた。一八九六年(明治二十九)綿花の輸入自由化、明治三〇年代の石油ランプと電燈の普及とともに、綿花と菜種の二毛作は急減していった。

 「菜の花畠に入日薄れ」とうたわれている「(おぼろ)(づき)()」は、一九一四年(大正三)に発表された。この唱歌は作詞者の高野辰之の少年時代、明治二〇年代の生活体験をもとに作られた。

 千曲川沿いの地域は、四季を問わず川風が強い。川風が強いと寒冷な気団が停滞しないので、桑の大敵である霜害が少ない。また桑の葉につく(きょう)()というウジが払い落とされるため、蚕がかかる微粒子病という伝染病が少ない。安政の開国(一八五八年)から明治初めまで、日本からの輸出品の筆頭は蚕種であった。微粒子病で壊滅したフランスとイタリアに、健全な日本の蚕種が輸出された。その蚕種製造の核心地が千曲川沿岸地域であった。

 一八七五年(明治八)になると、蚕種製造に用いる種繭の生産よりも生糸をつくる糸繭の生産が盛んになった。それまで国産生糸はロンドン市場へ送っていたものが、アメリカのニューヨークに直接輸出するようになった。養蚕の発展とともに、自然堤防や河川敷では桑園化が進んだが、長野市長沼のような水害常襲地帯では、桑より水害に強いリンゴ栽培を導入した地域もあった。

 長野市松代町の自然堤防は、一面ヤマノイモの一種長芋の特産地になっている。礫がなく、肥えた砂質壌土の自然堤防は、長芋やゴボウ(牛蒡)などの根菜類の栽培に適している。松代町は青森県の三本木原、北海道の十勝平野とともに、全国でも有数の長芋産地になっている。

地割慣行地と条里制遺構水田

 信濃川や木曽川の下流域は、水害常襲地帯になっているが、これらの地域では水害の危険を分散するために、農地を部落共有地とし、これをいくつかの「小字」の団地に分け、一定期間が経つと、持分権をもった人たちが集まって(わり)(がえ)をし、割り当てられた共有地を耕作してきた。また「(かわ)(かけ)」といって割替地が大きく侵食された場合、残った土地を、また「(おき)(がえり)」といって旧河床で耕作可能地ができた場合も土地を再分割して利用した。このような共有地制度を「地割慣行地」といっているが、戦後の農地改革とともに、割替制度を廃止したところが多かった。越後平野では一九六八年(昭和四十三)になくなったが、善光寺平や飯山盆地の千曲川沿岸では、いまだに地割慣行地が維持されている。地割地は流路に直行して、短冊型に土地割がなされているところが多く、その耕作景観は美しい。「リンゴ地帯」といって、割替期間を延長したり、あるいは無期延期している例もある。割替を実施している共有地では、野菜などの普通畑になっている。また各部落共有地の境界線は水害を受けると判明しなくなる。そこで漁民の「(やま)(あて)」と同様な手法で境界を確認している。たとえば長野市の牛島と真島の境界は、善光寺本堂と()()()(さん)を結んだ線によって引かれている。

 地割慣行地を研究するならば、千曲川沿岸地域を調査しなければならないほど学界で有名である。善光寺平における地割慣行地の存在は、洪水の度ごと冠水するような土地までよく開発され、農地として利用していることを意味している。

 善光寺平南部には屋代・石川・川田など条里制遺構水田が広く分布している。これらの水田は古墳時代の三~四世紀に開田されたが、地形的には千曲川の後背低地であり、土地は肥沃である。四世紀後半に建設された森将軍塚古墳をはじめとする古墳文化は、生産力の高い稲作が物質的基盤になって発展した。

 若穂綿内以北の後背低地における稲作は、その多くは平安時代以降に開発された。特に盆地北部の延徳田圃は室町時代の一四八九~九二年(延徳年間)から開田が進められたという。延徳田圃には明治時代まで沼沢地があったほど、盆地南部に比較して、その開発が遅れていた。ここでは第二次世界大戦後まで稲の収穫に田舟が利用されていた。

千曲川の原風景

 千曲川通船は一七九〇年(寛政二)から始められ、信越本線が開通する一八八八年(明治二十一)までが最盛期であった。一八七二年(明治五)には八九隻の川船が千曲川を往来していた。最大の船は七五石積み(一一・三トン)で、現在の大型トラック並の輸送力をもっていた。当時の川船の乗組員は、船頭一人、()竿(さお)一人、舟を曳く縄手四人の計六人であった。帆を張った通船が千曲川を往来した風景は、一幅の絵画を見るような状況であった。なお千曲川の舟運は部分的であるが、戦後まで見られた。

 「更科の名月」は、古代東山道支道の麻績(お み)駅から東方の姨捨山(一二五二メートル、冠着山ともいう)に出る中秋の満月を指していた。ところが、近世になると千曲市姨捨にある長楽寺あたりから、東に見える鏡台山(一二六九メートル)に出る月を「更科の名月」というようになった。松尾芭蕉が『更科紀行』で書いた姨捨の里もここであった。

 姨捨の原風景は、三峯火山の泥流がつくった押出し地形面が、江戸初期に開田されて棚田になった景観である。「田毎の月」で有名な千枚田は千曲川の氾濫原まで二三〇メートルの比高がある。坂城広谷から善光寺平へ北流する千曲川の流れは美しい。中秋のころ月光に映えた千曲川の川面(かわ も)は銀色に輝き、一幅の山水画を思わせる雄大な風景が見られる。第二次世界大戦前国鉄は「車窓日本三大景観」を選定したが、北海道の狩勝峠、熊本県・宮崎県県境の矢岳越えとともに、姨捨山から見た千曲川が流れる善光寺平が選に入っている。

(『千曲川草誌』第四号、二〇〇五年)

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