【第2回】恐怖のスッポン鍋 | マイナビブックス

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就活すごろく、上がりはイタリア 下

【第2回】恐怖のスッポン鍋

2015.10.13 | 吉原みどり

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恐怖のスッポン鍋
 

この料亭は私でさえも名前を聞いたことがあり、値段も高く客単価は五万円以上だった。オーナーは衆議院議員で永田町の陰の実力者と言われる人物だという。お客は有名企業の社長達で、接待される側は現職の大臣や役人も多いという。
この家には古くから勤めている四人の仲居さんが居た。新米の私が入り、四つの座敷と宴会用の大座敷を五人で仕切るらしい。仲居の仕事は単なるお運びとも違いお客の話し相手もし、勧められればお酒も飲む。でも普通のホステスと違うのは、みんな結構な歳なのだ。それに美人でも何でもないので助かった。
仲居頭のおさいさんは七十二歳。もう腰が曲がっているが、この道五十年のベテランで、何代もの総理大臣を知っているのが自慢のようだった。他の三人も六十代、五十代、一番若いヨシエさんが四十七、八歳。女将は雇われママで、この人だけが素人っぽい美人だが、仲居さんたちの方がずっと権力があるようだった。
初日、お仕着せの着物を着て出て行くと、おさいさんに言われた。「何よ? その着つけ!」それですっかり恐れをなしたが、その後は意外に皆親切で、初めの一週間はかわりばんで着付けを直してくれた。ミラノでレストランが営業していた二ヶ月間、時々着物を着ていたのがつい昨日のよう。何で私は着物を着てこんなお座敷に座っているの? と、狐につままれたとしか思えないのだった。しかし働き出してから一週間経って、ここに来たのは正解だったと思った。何よりもまず隠ぺい的な雰囲気が澱よどんでいて、隠れ家に入ったような安らぎがある。みんな常にヒソヒソ声で、私的なことは話さず、話題はもっぱら常連の政治家や社長族のうわさ話だ。私は訳が解らないまま、隅で黙って聞いていたが、彼女たちの話でおぼろげながら、今日本で何が問題になっているのかを知ることが出来た。労働時間も六日の内、一日だけ午前中からだが、それ以外の日は四時から十時まで。それまで今後の事を考える時間があった。月給は七万五千円だ。飲食店の仕事は食事付きなのでこれだけでも利点である。そういえば、マドリッドでも、ミラノでも文無しの男の子たちがよく来たっけ。その上、思わぬ余得があることも解った。ほとんどのお客様がチップを下さるのだ。一日が終わるとそれぞれ貰った人が差し出し、きちんと五等分に分ける。この道五十年のおさいさんは当然お客も馴染みが多く、彼女の稼ぎが一番多い。なのに、新米の私も同額頂けるのである。これがバカにならない額で本当に有難かった。私はひそかにここに半年くらい居て、今後の計画を立てようと決心した。
ただ、この仕事は思っても見なかった難点が一つあった。ここはコースの最後に供されるスッポン鍋で有名なのである。このグラグラに煮え立ったスッポンの土鍋を、多いときは四個お盆にのせて運ぶ。その時の怖さといったら! ピカピカに磨きぬかれている階段を、着物のすそを踏まない様に全神経を集中させて昇る。

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