【検索結果】"吉原みどり "の一覧
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着いて早々、初めて異国でのクリスマス・イブを迎えた。スペインはカトリック国だから、この日のマドリッドの賑わいは見ものである。驚いたことに、走行中のバスや地下鉄の車内で誰かがギターを鳴らすと、乗客の数人や子どもまでがフラメンコを踊り出すのだ。
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イタリア人は総体的に陽気で優しい。ドイツ人などに比べればずっと扱い易いといわれるが、うるさい客も無論いる。説明もアヤフヤの上に、天候や道路の渋滞にブツブツ言われても、言われっぱなしで言葉も閃かない。こんな私を添乗員たちも助けてくれた。
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大騒ぎで出ていった旅は、終わってみればあっけない。残暑の西陽が斜めにさし込む自室の赤茶けた畳の上で寝ころがっていると、けだるい虚脱感がおそう。今までは目の前の仕事をこなすのに夢中で走って来たのだが。将来のことも本気で考えなければ。貯金も遣ってしまったし……。
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モスクワ発ウィーン行きの国際列車はショパン号という。さすがだ。ポーランド、チェコを経由し、3日後ウィーンに到着した。モーツアルト、シューベルト等などおなじみの人が実際に住んでいた街に来たのだ。むかし絵本で見たお城があるではないか。鐘の音一つにも、それまでに聴いたり弾いたりした曲とが結び付いたうれしさ!
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セルペンテの技師の仕事のあと、語学エージェントや旅行代理店への売りこみが功を奏してか、半日とか一日程度の小さな仕事を五、六本やった頃だ。大手旅行代理店から電話が来た。国際医学会議のツアーで、イタリア人が二百数十人来るというのだ。
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一九六四年、日本悲願の大イベント、東京オリンピックが開催された。ついに戦後の復興は成し遂げられたのだ。国中が沸きかえっていた。
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デパートで販売し、レジに入金する場合、D社ではなく私の名義で売上げを申請する。売り場での表示にも、店名が必要になった。
その前、一年以上全く音信がなかったミラノの先生の奥さんから、初めて手紙を貰った。 -
キートーの伴奏も沢山した仕事の一つだった。キートーとは逆さま言葉が好きな楽隊(主にオーケストラマンはみんな自分たちのことをこういっていた)隠語の一つ。トーキー、即ち映画音楽のことである。初めてやったのは東映のアニメ「安寿と厨子王」だった。
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或る日。通訳一号をやったレストランのS氏の奥さんから思いがけない電話があった。彼女はレストランの隣でブティックを経営し、フランス製の洋服やバッグ等を売っていた。そのマダムが、「商品を貸してあげるから売ってみない?」
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初舞台から二年くらい経った頃、ラテンバンドでマリンバ(大型木琴)を弾かないかという話がきた。日フィル以来、木琴も習っていたので、わっ、チャンスだと飛びついた。バイオリン出身の私としてはメロディ楽器にも愛着がある。
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レストラン仕事が終わりに近づいて来た頃、通訳依頼の二回目が来た。
今度の依頼主も三河島の神父様経由で、知り合いの、またその取引先の会社とか。こんな訳で巡りめぐって頼んできた方も内容がはっきりしないが、日本に発注した繊維製造機器に関して、イタリアから技師が来ると云う。 -
本当に通訳依頼がきた! 。電話の主のイタリア人S氏は、渋谷でピザハウスを経営している。今度はレストランも開くので、ローマからシェフを呼ぶという話だった。S氏自身は既に日本滞在が長く、奥さんも日本人なので日本語はペラペラだ。
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約一年後、約束は現実になった。先生は日本フィルハーモニー交響楽団の大阪公演を二十回振ることになり、そこで私を売り込んで下さったのである。曲目は、スペインの作曲家マヌエル・デ・ファリアの組曲「三角帽子」である。六人の打楽器奏者が必要な曲だ。
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帰国して一年以上経った。借金返済どころか未だに暮らしはやっとの有様だ。内装仕事もモノになるとも思えず、何にも良い材料は無かった。にもかかわらずだ。挫折感に振り回されながらも、あと少しで道が見付かるという直感が時々胸をよぎるようになった。
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ちょうど今村先生に太鼓を習い出して一年近くたった頃だ。音楽会の帰り、友達から当時N響の副指揮者だった岩城宏之氏を紹介された。氏は二〇〇六年に亡くなられてしまったが今村先生の弟子で、まず打楽器奏者として世に出たのである。
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