第一章 「働けるようになりたい!」頃
「バッソ・オスティナート」が消えた…
一九七三年(昭和四八年)十二月二十二日夜。イタリア、ミラノ中央駅のプラットホームはクリスマスの帰省客でごった返していた。ロンドン行列車の出発時刻はとうに過ぎた。かれこれ半刻、私は、数メートル先のベンチに置かれた丸い風呂敷包みから目を離せないで居る。誰も気付かないのか、人の流れにさえぎられつつ一瞬チラっとそれが見える。まだ在る。あれは私のもの。大型のガラスびんにぎっしり詰まった梅干しだ。ロンドンには日本レストランが多い。これを買ってくれる店は何処かにある筈と、ここ迄は何とか運んで来たものの、この人混みと重さ持ち難さとで、ついに諦めた。もうここに捨てて行く。あれは私たちにしか価値の無いもの、そうして今、私たちにも価値が無くなってしまった物の象徴だ。 これから日本に帰る。ミラノから飛行機なら明朝には東京に着くが、それが出来ない。理由は、あの頃格安航空券はロンドンでしか売っていなかったからである。が、それだけでは無かった。日本に帰るのを一日でも遅らせたかったのだ。 満員の夜汽車の隅に座ってオーバーを脱ぎ、膝に掛けた。