【第3回】山で会い、山に還る ― 人に懐かない甲斐犬(1) | マイナビブックス

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愛犬との出会いと、別れ 上巻

【第3回】山で会い、山に還る ― 人に懐かない甲斐犬(1)

2015.09.30 | 久根淑江

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人に懐かない甲斐犬

 

 年の暮れまでは残り三週間余り。そこへ降って湧いたように家族が一匹増えたのだから、その目まぐるしさといったらなかった。

 仕事のことを考えながら、朝は遅刻しまいと走ってバスに乗り出勤する。飛んで帰ると、待ちあぐねている子犬がいる、そんな毎日だった。

 餌をやるときでさえ、ジッとしていない。喜びと、早く早くとせがんで私の足もとを動き廻る。踏んづけるの離れようとすると、かえって近寄ってくる。そして避けたはずが足先を踏んづけてしまい、「キャン」、「ごめん」を、その度に繰り返す。

 しかし、年末から年始にかけてハチを預けなければならない用があった。前からの約束で、母と、母の旧友を同行しての紀伊への旅行だった。近くの兄の家に預かって貰うことになったが、兄の家族は〝婆抜き〟正月になる代わり、とんだ珍客を預かることになってしまった。

 犬好きの一家は、しばらく空き家になっていた犬小屋の掃除やら、準備万端、受け入れ態勢を整えてくれた。

 そして旅行に出る前になると、兄が引き取りに来てくれた。

 子犬は尻尾を振って誰にでもまつわりつくものと思っていたが、少々、勝手が違った。蛇でもおとなしくなる兄に対してもけっして懐こうとしない。床下から顔を出し、私でないと知ると吠えて奥へ潜ってしまい出て来なかった。仕方なく私が呼び寄せて箱に入れた。

 預けられていた間も、普通の可愛い子犬ではなかったという。家族にとって愛玩的動物でなかった点、一緒にいても楽しくなかったし、期待はずれの犬だったようだ。

 それは兄の家族に対してばかりでなく、私以外の人間には誰にも気を許さないのだ。散歩の帰りに近くの八百屋に立ち寄ったときも驚かされた。

「まあ、なんて可愛いんでしょう」

 犬好きらしい客の奥さんが目を細め、まだ三十センチ余りのハチの背を撫でた。普通、子犬はそうされれば愛嬌たっぷりに尾を振り、よちよち身体を寄せて行く。

 それが撫でられた途端、「ウーッ」と全身の毛を逆立て、身体を大きく見せて唸った。

「あら、ごめんね。いっぱしの唸り声だわ。お前さん、強くなるね」

 慌てて手を引っ込め、その奥さんは珍しそうにハチを眺めていた。

 近くの丘の上を散歩していたときも、人の気分を悪くさせた。

 門扉越しにダルメシアン種の成犬がいて、前を通りかかると庭から道近くまで走り寄って来た。ハチも近寄って行き、扉越しに互いに尾を振って嗅ぎ合い相手を確かめ合っていた。

 庭の奥から、その家の主人も子犬に目をとめ近づいてきた。すると、またしても「うーっ」であった。

「どんな犬にも、唸られたことはないんだけどなぁ」

 主人は不快そうな表情をして、再び庭の奥へ引っ込んでしまった。犬にはよくても、人には極めて愛想のないハチであった。

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