Over-connected、接続過多時代を考える|MacFan

アラカルト FUTURE IN THE MAKING

Over-connected、接続過多時代を考える

文●林信行

IT、モバイル、デザイン、アートなど幅広くカバーするフリージャーナリスト&コンサルタントの林信行氏が物申します。

 

©Vjom

 

 

 

アップルは作る製品だけでなく、開発の舞台裏も面白い。そのことを1人でも多くの人に楽しんでもらおうと本を書いたことがある。「まえがき」でこの本は初心者向けでアップルについて詳しい人が得るものは少ない、とあらかじめ断った。いざ発売すると、ネットに書かれた最初の書評はアップルに詳しい方による「知っている内容しか書いていなかった」という感想だった。

人はそれぞれ生活環境も価値観も異なり、世界70億人を同時に満足させることなどできない。

ネットより前にあったメディア、たとえば「雑誌」の素晴らしさは書店で「雑誌」を見てお金を払う時点で「雑誌」と「読者」の価値観のすり合わせがある程度、行われていることだ。中に書かれた記事を読むときも、読者はその記事がその雑誌の世界観に帰属していることをどこかで感じている。

ネットが広まったあとも、しばらくは一つ一つの記事は新聞社のWEBサイトやWEBニュース媒体、個人サイトといった個別の世界観に帰属していた。読みたい記事はまずその媒体のトップページを訪れ、探していた。しかし、デジタル技術が得意とする離散性、つまり連続していたものをバラバラにする特性が顔を出し始める。レコード盤やCDのアルバムとして売られていた音楽が1曲単位で買えるようになったように、一つ一つの記事にパーマリンクと呼ばれる個別記事を割り振ったのがブログの革新的なところで、その後、RSSをはじめとする裏方技術の登場で人々は記事を媒体から切り離し個別に読むようになった。

この離散性をさらに加速させたのがソーシャルメディアだ。ソーシャルメディアは「世の中にいる人々こそが面白いコンテンツ」と気づかせると同時に、自分がフォローしている人たちを面白いニュースのキュレーターにも変えた。もはや、多くの人はそれがどの出版社/メディアのWEBサイトに帰属するかなど気にせずに、ツイートやフェイスブックの投稿に貼られたリンクから直接、個別の記事を読む。そして人々は自分と相性が悪い価値観のニュース記事や個人投稿もどんどん目にするようになった。私は、これがネット上での言い争いの主な原因ではないかと思っている。

つまり、ソーシャルメディアはわざわざ可視化する必要のない他愛のない情報を増やしたあと、さらには出会わないほうが幸せだった情報と人をつなぐ「Over-connected(接続過多)」な状態を引き起こしている、のではないか。

元々の物理の世界では、人々は住む場所や(仕事も含めた)生活環境などでムラ(村)化しており、あまり異なる価値観に触れる機会がなかった。ネットで世界とつながり、周囲には理解されない自分の価値観を理解してくれる人が世界には大勢いることを喜んだ。おそらく、ここまではいいことだ。しかし、ソーシャルメディアによって自分の価値観を頭ごなしに否定し嫌悪する人もいるということも知った。そしてネットでの情報発信は積極的にせず、再びムラの中に閉じこもり、他の人たちが利己を追求するのであれば、自分の帰属する価値観が負けないように自分もそれ以上に利己に走ろうと暴走したのが、昨年から世界の政治の世界に起きている現象かもしれない。一度は「つながる喜び」を覚えた我々の行く先は再びのムラ化しかないのか。

もし、それ以外に選択肢があるとしたら、それは多様性の尊重だろう。考えの違いを許容し、他の考え方とも共存する生き方。ただ、そのためには普段の物理の世界の生活でも、他の多くの人が自分と同じように泣いたり笑ったり血を流したりする人間であることを直に自分の目で見て知る必要がある。やがて、人工知能時代に入り、知識の詰め込みが不要になる教育の世界でも、むしろそうした経験を与えることのほうが重要になるのではないか。

 

 

 

Nobuyuki Hayashi

aka Nobi/デザインエンジニアを育てる教育プログラムを運営するジェームス・ダイソン財団理事でグッドデザイン賞審査員。世の中の風景を変えるテクノロジーとデザインを取材し、執筆や講演、コンサルティング活動を通して広げる活動家。主な著書は『iPhoneショック』ほか多数。