【第16回】 | マイナビブックス

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今宵、虫食いの喪服で

【第16回】

2017.03.06 | 柏原弘幸

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今、四十九歳の横山は銭湯の電気風呂の中でしびれまくっていた。
――小学校の時に抱いた大志は、ある意味、達成した。
横山は上唇をプレスリーのように歪め、苦々しい笑みを浮かべた。過去の人生すべてが夢のように思える。だが、未来はリアルに想像できた。
後退した額に、大粒の汗がいくつも浮かんだ。静かにふう~っと息を吐くと、横山の脳裏をある光景がよぎった。
それは全裸で両手を水平に広げ、見えない十字架に磔にされたような格好で、湖のほとりに立つ及川美玲の姿だった。そしてもし生まれ変れるなら、あの時、悠然と空を舞っていたコンドルになってみたいものだと思った。
デビューから瞬く間に人気女優になった及川美玲は、浮名を流すことだけでタレント生命を維持しているような俳優との密会現場を写真週刊誌にスクープされて以来、急激に人気を落とし始めていた。「ヘアヌードをやるわ。私が今脱げば、日本中大騒ぎよ」及川美玲の意向は、マネージャーである横山単独の判断で処理できる問題ではなく、会社のトップまで巻き込んだ検討があらゆる角度からなされ、喧々諤々の議論の末、ゴーサインが出されたのだった。
アリゾナ州フェニックスから数十マイルの場所にある、周囲のほとんどを褐色の断崖絶壁に囲まれた湖のほとりで撮影は始まった。湖面は紺碧の色彩を湛え、辺りに撮影隊以外の人影はなく静寂が立ち込めていた。
女優のヌード撮影の場合、男性マネージャーは通常現場を外すので、横山は湖に浮かぶ釣船の船室の陰に身を潜めて待機していた。女性編集者の声が聞こえ、横山は自分を呼ぶ声と聞き違えて船室の陰から立ちあがると、及川美玲の全裸がほぼ正面から視界に入ってきた。及川美玲は、横山の出現にまったく動じることなく、カメラマンのシャッター音に身を晒していた。
太陽は朝と昼の間にわずかに訪れる完璧な角度から、半逆光に全裸の及川美玲を照射し、その肌に陰影を貼り付けていた。その姿は周囲の岩肌から生まれたように、風景の一部として存在していた。上空を一羽のコンドルが悠然と威厳たっぷりに飛んでいた。時はまるで止まっているかのようだった。コンドルは時の支配者として、永遠の時空を自由に行き来するように漂っていた。この忘れ難い神秘的な光景は、横山の脳裏に鮮烈に刻まれた。
横山はこの仕事が終ってから、何度もこの撮影風景を夢に見た。夢の中の横山は、空を舞うコンドルになっていた。高度百メートル以上の上空から、米粒ほどの裸体めがけて横山は急降下した。空と湖の紺碧を切り裂く、めくるめく光彩の中に横山はいた。裸体に近づくと、今度は裸体が周囲に点在する巨大なサボテンの何倍もの大きさになり、横山は大巨人を攻撃する戦闘機のように、及川美玲の裸体の周りを縦横無尽に飛び回った。電気風呂のしびれの中で、横山はしばしアリゾナのコンドルになり翼を広げていた――
横山は四畳半の部屋に戻ると、虫食いの喪服に身を包んだ。

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