【第17回】 | マイナビブックス

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今宵、虫食いの喪服で

【第17回】

2017.03.13 | 柏原弘幸

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横山は階段の下で立ち止まり振り向くと、妄想を掻き消すように声をあげた。
「横山健一、行って参ります!」
背筋を伸ばし敬礼すると、戦地に赴く兵士のような眼差しでマイルスを見た。マイルスは耳をそば立たせ、瞳孔の開いた眼で驚いたようにじっと横山を見つめた。
横山は茶色の蓋にヨコヤマと白墨で直接表記された下駄箱を開け、黒い革靴を取り出した。普段使用するスニーカーは必ず盗まれるので、部屋にいちいち持ち運んでいる。十年以上も前に買ったこの革靴のかかとは、極限まで磨り減り黴も生えていたが、無視して二八センチの足を突っ込む。通夜の席で自分の靴を凝視し、チェックする人もいないだろう。悪臭を放っているのが問題だが、お隣さんの下駄箱にスプレー式の消臭剤があったはずだ。ギブミー、ちょっとだけ・・・・・・
 
私鉄を利用したほうが近いが、乗り継ぎを安くするためJRの駅に向かった。街はまだ十分に明るい。
東京湾に注ぐ川、その横幅のさして広くもない川にかかる橋の上で立ち止まり、ムンクの『叫び』のようなポーズをしてみる。ただ、してみただけだ。ここ数年の追いつめられた精神状態の中、こんな風に発作的にわけの分らない行動をすることがある。封印してあるはずの、過去にしでかした自分でも信じられない悪行が時折顔を覗かせ、横山を責め立てているのかもしれなかった。
――自分の精神状態はもはや、危ない人といっていいレベルになっているのかもしれない・・・・・・
横山は『叫び』のポーズのまま、コンクリートの欄干に両肘をつき、川面を見た。
小刻みに揺らめき光を弾く川面が、ざわついた気分をさらに煽りたてる。横山は眉間に深い皺を寄せ、眼を細めた。そしてこれから始まる通夜を想像した。
――自分を知る大勢の古巣の社員にも会うだろう。みすぼらしい格好に、ぎょっとするに違いない。会話をすれば、抜けた前歯も隠しきれないだろう。終始、口もとをバカでかい手で隠していたら奇人だろう。自然体で行くしかないが、どう見ても珍妙な男にしか見えないだろう。人生最大の恥晒しの夜になるに違いない。耐えがたいことだが、しかたない。これまでの怠惰な人生のツケがまわってきただけの話だ。
横山は虚ろな眼で川面に映る自分の顔を見た。そして嘲るようにつぶやいた。
――情けない男だ・・・・・・

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