【第15回】 | マイナビブックス

100冊以上のマイナビ電子書籍が会員登録で試し読みできる

今宵、虫食いの喪服で

【第15回】

2017.03.02 | 柏原弘幸

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
横山は銭湯の鏡の前で、力瘤のポーズのまま今度は微笑んでみた。鏡の中の自分の眼は笑ってなかった。口は笑っていても、眼はさみしそうだった。傍らに立っている、痩せ細った老人の鳥のような視線に気づいて、横山は浴室に入った。
浴室の片隅に、ひとり用の電気風呂があった。理科系に弱い横山は、どういう仕組なのかよく理解できなかったが、浴槽の内側の両サイドに電極のような板があり、微電流が流れているようだった。初めて入った時、心臓麻痺でも起こすんじゃないかと心配になったが、慣れてみるとその強烈な刺激が癖になった。自分が壊れていくようで、たまらなかった。このまま、この世から消え失せてしまえるなら、それも悪くない。そんな思いに駆られたことも一度や二度ではなかった。
横山はいつものように電気風呂に身を沈めた。そして温泉に浸かるニホンザルのように、恍惚の表情を浮かべ、孤独に痛みつけられた巨躯を癒した。横山の日常の中で、銭湯は数少ない憩いの場所だった。だが、今、電気風呂の刺激の中で無為に過ごした歳月が不意に頭をよぎると、激しい悔悟の念に襲われ、それは「畜生!」という小さな叫び声となって体外に放たれた。大浴槽に浮んでいたいくつかの首が、一斉に横山の方を向いた。
リボルバー・エンタテイメントを追放されてからも、体勢を立て直すチャンスはいくらでもあった。そのあと、谷口の紹介で小さな芸能プロに再就職したものの、遅刻連発で三ヶ月でクビになってしまった。遅刻は論外だと頭では理解できたが、横山の片足に纏わりつく黒い影が、定刻に出勤することを拒み続けた。黒い影は、横山が社会の約束事に従うことを許さなかった。その後、一時凌ぎのつもりで始めた派遣の仕事をずるずる引き摺って、何一つ行動を起こすことなく今日まできてしまった。
電気風呂の刺激に脳味噌がシェイクされ、さまざまな想念が滴り落ちてくる。
母親とはもう、十年近く連絡を取っていない。
横山はリボルバー・エンタテイメントを去った後、それまで住んでいたマンションを引き払って、現在の四畳半に移った。「どげん所とこね?」との問いに、「ワンルームのアパートたい・・・・・・」と口を濁した息子を訝った母親が、いきなり上京したことがあった。羽田まで母親を迎えに行き、横山はさしさわりのない会話をしながら、暗澹たる思いでアパートまで案内した。薄暗い階段を上り、魔界のような廊下をどんづまりまで進み、トイレ横の足の踏み場もなく散らかった黴臭い四畳半に立った時、母親は言葉を失い、顔を強張らせた。横山が重苦しい空気を取り払うべく窓を開けると、ひと跨ぎの距離にある隣のアパートの窓が開け放たれていて、中年の太った男女が、窓から身を乗り出すようにして、白昼堂々とまぐわっていた。横山は自分の人生につき纏う間の悪さを呪ったが、何事もなかったように窓を閉めると、母親は薄汚れた天井を仰ぎながら、
「情けなかぁ~!」

続きをご覧いただくには、会員登録の上、ログインが必要です。
すでにマイナビブックスにて会員登録がお済みの方は下記の「ログイン」ボタンからログインページへお進みください。

  • 会員登録
  • ログイン