【第07回】 | マイナビブックス

100冊以上のマイナビ電子書籍が会員登録で試し読みできる

今宵、虫食いの喪服で

【第07回】

2017.01.12 | 柏原弘幸

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
そんな、矢野部と名乗る奇妙な男との出会いが半月前にあった。矢野部は裕福な実家が都内にあり、このアパートは下流社会の研究のために、いわばフィールドワークとして借りているということだった。なんでも不動産屋に、ここらで一番ひどいアパートを紹介してほしいと言って紹介されたのがこのアパートらしかった。
矢野部はあの夜、横山に釈迦にまつわる逸話と、ニルヴァーナという言葉の解説をむりやり聞かせ、そのあと土下座し、「一円でいいから、お布施をしてもらえませんか」と懇願してきた。「もう般若心経も唱えません。一円でいいのです。金額の問題じゃないんです。一円もらえれば私は立派な宗教家です。この瞬間に宗教家としてのスタートを切れるのです。そしてあなたは、信者第一号という栄誉を手にいれるのです!」矢野部は土下座したまま顔を上げ、ものを頼んでいる人間とは思えない満面の笑顔でそう言ったのだった。
横山は結局、一円を払った。苦情を言いに行った俺がなぜ金をとりに部屋にもどるのかと、自分がマヌケに思えたが、流されるままに生きてきた横山はつい矢野部のペースにはまったのだった。
横山はパンツ一丁で扇風機の風にあたりながら、ぼんやりとそんなことを思い出していた。
 
一昨日の日曜日、谷口から電話があった。
その時、横山はマイルスと名付けた野良猫を、自室に招き入れていた。
マイルスは数年前からこのアパートに半ば居ついてる、真っ黒な老描だった。名前は横山のリスペクトする、マイルス・デイビスに因んで付けた。横山は仰向けになり腹の上にマイルスを乗せ、スーパーで失敬した試食品のするめイカを与えていた。横山はネズミ対策のため、マイルスを手なづけようとしていた。
「もしもし」横山は携帯を手にとり、マイルスの顎をさすりながら言った。
「何してる?」谷口はいつものセリフを吐いた。
「天井を見ている」横山はいつものセリフで応えた。
日曜日の昼下がりには、定期便のように谷口から必ず電話がある。単なるおしゃべりだ。携帯料金を気遣っていつも谷口からかけてくる。
「もしもし」
「何してる?」
「天井を見ている」
このワンセットのやりとりは、なかば儀式化していた。横山が「天井を見ている」と舞台役者のように仰々しく決めゼリフを吐いたあと、谷口が「そうか、天井を見てるか・・・・・・」と仰々しく続き、二人して笑うまでが会話のイントロだった。
日曜日の昼下がり、やることのない横山は四畳半に仰向けに寝そべって、いつだって天井を見ていた。

続きをご覧いただくには、会員登録の上、ログインが必要です。
すでにマイナビブックスにて会員登録がお済みの方は下記の「ログイン」ボタンからログインページへお進みください。

  • 会員登録
  • ログイン