【第02回】 | マイナビブックス

100冊以上のマイナビ電子書籍が会員登録で試し読みできる

今宵、虫食いの喪服で

【第02回】

2016.12.12 | 柏原弘幸

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
広げた皺だらけの喪服には、大小含めた夥しい数の虫食いの跡が穿うがたれていた。正面、袖、襟、ポケットの周辺、背中と、まんべんなくものの見事に食い散らかされている。最後にこの喪服を着用したのが十年前なのか、十五年前なのか見当もつかない。それほど長い間、まともな社会人としての歳月から遠ざかっていた。
虫食いの惨状に半ば感心しながら、それでも横山は喪服のズボンを穿はき、上着の袖に高校時代、バスケットボールのスター選手として喝采を浴びた長い腕を通した。ウエストはきつかったが、少しの時間なら何とかなりそうだ。上着も無茶な動きをしなければ破れることもないだろう。見ようによってはコントの衣装に近い状態だが、もはや時間も金もない。いや、時間なら紳士服店に飛び込むくらいの余裕はあるが、それを買う金は、この部屋のどこをひっくり返してもなかった。通夜は二時間後に迫っている。
優柔不断な人生を歩んできた横山だったが、通夜に参列することに迷いはなかった。というより、遺影の前にどうしても立ちたかった。それは、この十年近い大惨敗人生の総決算として必要な儀式にも感じられた。暗澹と横たわる、先の見えない日々を生き延びるために不可欠な区切りのようにも思えた。こんなプチ世捨て人の人生を区切ったところで、何がどうなる訳でもないことは分っていた。落伍者が感傷に浸るだけのことかもしれなかった。だが、横山はその場に立って耳を澄ませてみたかった。そうすれば、何かが聞えてくるような気がした。それはあきらめかけていた残りの人生に、希望をもたらす光のように思えた。そうでもしなければ、一歩も前に進めないほど、味気のない日々を重ねていた。
虫食いの喪服は、皆に嗤わらわれるだろうか。しかし今となっては恥を忍んで強行突破するのみだ。そもそも喪服が必要なのは一昨日前から歴然としていた。直前になるまで確認をしないこのだらしのなさ! それに加えて大学時代から身体に染みついたギャンブル癖が、横山をこのトイレ臭の漂う四畳半に引き摺り込んだ大きな要因に違いなかった。
今から二十七年前、一流と言われる大学に入学しながらも怠惰な生活に明け暮れ、留年が既に確定していた大学三年生の時、新宿のクラブでドアボーイのアルバイトをしていた。チップを含めるとかなりの収入になった。ある週末、横山は二十万円入った給料袋をふところに東京競馬場に行き、一日で全額使い果たしたことがある。第一レースから順調に負け続け、最終十二レースに投じた一万円がただの紙切れになった時、外れ馬券の舞う観客席で天を仰ぎ、立ちつくしたまま身動きできなかった。他の観客が姿を消したあとも、そのままだった。掃除のおばさんに声をかけられ、我に返った。横山の転落人生の始まりを告げる、高らかなファンファーレが鳴り響いた瞬間だった。
帰りの電車の中で横山は震えていた。一ヶ月分の報酬が水泡に帰した現実に、身体が素直に反応していた。その時、空から墜落していくような、気が遠くなっていくような感覚に包まれた。その甘い陶酔にも似た感覚は、四半世紀以上過ぎた今も横山に影のように纏まとわりついていて、決して消滅することはなかった――
横山は百円ショップで買った手鏡を柱の釘に引っ掛け、ボクサーのように身をかがめたり、捩じらせたりしながら喪服姿の自分を映してみた。だが大男の全貌を捉えることは不可能だった。
横山はもう一度大きくため息をついた。すると、この情けない状況が人ごとのように滑稽に思えてきた。腹の底から可笑しさが込み上げてくる。クックック、と引き攣ったように笑いながら手鏡に近づくと、治療費が捻出できず前歯が二本欠けたままの口が、地獄の門のように開いていた。
横山は暑さに耐えかねて一旦喪服を脱ぎ、よれよれのパンツ一枚の姿に戻った。部屋の中央に胡坐をかき、扇風機を片手でむんずと掴み巨体の真正面に据え、股間の辺りに風を送った。

続きをご覧いただくには、会員登録の上、ログインが必要です。
すでにマイナビブックスにて会員登録がお済みの方は下記の「ログイン」ボタンからログインページへお進みください。

  • 会員登録
  • ログイン