【第2回】 | マイナビブックス

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 その夜────。

 大きな物音を聞きつけて、陽平は目をさました。ひとりっ子ということもあって、特別に勉強部屋をもらっていた陽平は、両親とは別の一間で寝ていた。ガタガタンとなにかを倒したような音は、となりの両親の部屋から聞こえたようだった。陽平は眠い目をこすりこすり布団を抜け出すと、二つの部屋を隔てているふすまをあけた。

「おか……」

 お母さん、と言おうとして、陽平は言葉を飲みこんだ。窓から射しこむ月光のなかに、知らない男二人の姿が浮かんでいる。その手に、なにか不気味に光るものがあった。怖くなって声をあげようとした途端、陽平に向かって男の手が伸びてきた。逃げようとするや、頭に強い衝撃が走り、陽平の目に映る天と地がひっくりかえった。すると頭が急にぼうっとかすんできて、陽平は足に力を入れるどころか、声をあげることすらできなくなった。

「おい──ガキだって──くらいじゃ」

「なァに──うちに──火だるま──さ」

 話し声は聞こえてくるが、あまりに不明瞭でなにを言っているのかわからない。陽平は懸命に助けを呼ぼうとしたが、頭から鼻の芯まで詰まったようになっていて、なにもしゃべれなかった。男たちは陽平が気絶したと思ったのか、そのまま消え去った。とりあえず危機はまぬがれたかと安堵する陽平のまわりに、白い煙と焦げるような変な匂いがただよってきたのは、その数分後だった。なにごとかと見極めるより早く、パチパチと木材がはぜる音が、赤い炎と一緒に迫ってきた。

「……か……!」

 火事だ、と叫ぼうとして、陽平はゴホゴホと咳きこんだ。煙が目に染みて、まぶたをあけていられなくなる。陽平は眠っている両親を助けようと、全身の力を振り絞って這った。部屋の隅まで瞬く間に白煙が満ち、もう天井の木目すら見えない。異様な暑さを感じながら、陽平は必死に呼びかけた。だが父も母も眠りこくったままで、陽平がどんなに声をかけても起きる様子はなかった。

「おか……さん、火事……おか、あ……!」

 照りかえす炎の色か、それとも──陽平がやっとのことでたどりついた両親の布団には、牡丹色のしみが毒々しく広がっていた。

 

 

 怜はキュッと口を結んで、にじみ出そうとする涙を必死になってかくしていた。陽平が体験した火事のおそろしさに同調してしまったのか、怜の体は今にもふるえだしてしまいそうだった。自分のおびえを悟られないよう、怜は足早に歩いていた。そうする今も、陽平のあまりに深い孤独と悲しみが、つないだ手のひらから刺すように伝わってくる。かすめ見た表情こそ幾らか良くなってはいたものの、陽平の胸を蝕む悲しみをやわらげるのは、並大抵のことではなさそうだった。

 怜は『夜想曲』という文字を一秒でも早く目にしたくて、なかば走るように呉服屋の角を曲がった。そして店の扉の前へ出るや、逃げこむようになかへ入った。

「いらっしゃ……ああ、レイさん」

 鈴の音とともに、お帰りなさい、という透の声が響く。見慣れぬ場所にとまどっている陽平をカウンターまで連れていくと、怜は客だと言って透に預けた。

「わたし、着替えてくるわね」

 顔を見られないようにすぐさま勝手口の扉をあけ、怜は二階へ駆けのぼった。ベッドに身を投げだすと、こらえていた涙が堰を切ったようにあふれだした。独逸きっての占い師だった母と、母と同じく瑞典出身の祭文語りだったと聞かされている実父の血を引いている怜は、透と同様、ふしあわせを背負っている人々に知らず気づいてしまうことがあった。 そんななかで陽平のような境遇は、実はさほど珍しいものではなかった。世のなかにはもっと不幸な人もいるのだということを、怜は事実として知っていた。

「それなのに、こんなに心が痛むのは」

 縁にレヱスのついた白襟に手をかけると、それまで怜の身を包んでいた淡い灰色のワンピイスに、ある変化が起こった。編み物の糸が風にほどけて行くように、身ごろも袖も煙のような細い糸に分かれて宙にとけていく。「陽平くんが、小さい頃のトールちゃんにどこか似ているせいね。トールちゃんはいつもだれもいないところで、たった一人でひざをかかえて泣いていたわ。いいえ、今でもそうなのかもしれない」

 この世の悲しみをすべてなくすことなんてできないけれど──怜は小声でつぶやいた。

「でも、だから……悲しみの涙を流している人に出逢ったら、せめてその人にだけでも、わたしにできることをしてあげたいの。ねえ、母さま……わたし、まちがっていないわね?」

 

 怜は涙をふき起きあがると、はれぼったい顔に美顔水をはたいて着替えをはじめた。少しでも明るい雰囲気になるようにと、箪笥から紅色と深緑の棒縞の着物を出す。これに白い縁のついたエプロンをかけると、銀座のカフェー・ライオンかタイガーにでもいそうな、女給さん風になる。怜は身なりを整え、涙で赤くなった目が落ち着いたのを確かめて、薬箱と裁縫箱を持って一階に降りた。ココアの甘い良い香りが階段にまでただよい、店のほうからは楽しそうに談笑する声が聞こえてくる。怜は階段を降りきったところで明るい笑顔を作ってから、厨房に続く扉をあけた。「いい匂いね、トールちゃん」

「レイさんもどうぞ。初江さんが下さった、くず餅もありますよ」

「ま、おいしそう! 初江ちゃんには、今度ケーキでも焼いておかえししなくっちゃ」

 盆に乗せられた熱いココアの茶碗を取ると、怜はその香りだけを味わい、ひとまずカウンターに戻した。

「わたし、猫舌なの」

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