【第3回】 | マイナビブックス

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 深入りは、良くないと思います。

 昨晩、透が陽平を送って帰ってきたときの、開口一番の言葉だった。それを聞いた怜は、ただうなずくだけだった。透はレイさんの気持ちもわかりますが、と言ったきりでその話題を切りあげたが、怜の胸は釈然としなかった。その証拠に翌朝、怜は矢も盾もたまらず陽平の家に出向いてしまっていた。

 銀色の毛並みをきらめかせる猫が、隣家の屋根の上から石川家の中庭をのぞいている。陽平は火事で二親と家を失ったあと、富多摩にある父かたの叔父の家に引き取られていた。

(陽平くんのご両親は、なんとかっていう組合の中心的な活動家だったのよね)

 透が寝たあと、ここひと月分の新聞を漁って見つけた小さな火事の記事が思い出される。三面の隅に載せられていた記事には、陽平の両親の名と並んで、共産、解放、生活活動といった言葉がやや否定的に並べられてあった。

(政治の難しいことはわからないけれど……陽平くんのご両親を殺して火までつけたのは、反対派のしわざなんでしょうね)

 金茶色の瞳を光らせて、銀猫は下の様子をうかがっている。やがて勝手口の戸がガタンと動き、それと同時に人影が見えてきた。

「さっさとしなさい!」

 何の前ぶれもなく聞こえてきた厳しい叱咤に、銀猫は身を縮めた。

 陽平が、勝手口を抜けておずおずと中庭へ出てくる。その顔を見た銀猫は、胸がつぶれる思いだった。ゆうべ遅く帰ったせいでぶたれたのだろう、頬が真っ赤に腫れている。陽平は切れたくちびるの端を気にしながら、冷たい井戸水をすくって顔を洗った。だがどうしても左手の端からこぼれてしまい、洗うのに時間がかかってしまうようだった。それが気に入らないのか、おびえる背中にまた叔母の叱責がかかった。「ゆうべどこへ行ってたのかも言わなけりゃ、あやまりもしない。いい、うちが嫌ならね、いつでも出ていっていいんだからね」

 かえす言葉もなく、そろそろと井戸端から離れていく陽平に、叔母はさらに追い打ちをかけるように言った。

「なんてかわいげのない! やっぱり、親がああだとこういう子になるのかねぇ。本当に、いっそのこと……」

(ひどい!)

 銀猫がフーッと息を荒だてるより早く、陽平は悲しそうに目を伏せ、なにも言わずに手ぬぐいをたたんで土間へ戻った。

(やっぱり、放ってなんかおけないわ)

 銀猫は屋根から飛び降り、石川家の門の前へ走った。そこで陽平が出てくるのを、待つつもりであった。透の言葉が気になりはしたが、銀猫はかまわずに陽平を待ち続けた。陽平を守ってくれる人を見つけたい──そんな気持ちが、銀猫の心を満たしていた。

(こんな姿では、たいしたことはしてあげられないけれど)

 今日一日は見守ってあげようと、かたく心に決める。しばらく様子をうかがっているうちに、玄関の戸がガラガラッと開いて、陽平のいとこにあたる少年たちが駆け出してきた。陽平と一緒に学校へ行くのは嫌なのか、兄弟二人だけでさっさと行ってしまう。陽平は暗くよどんだ曇り空を見あげながら、少し遅れて出てきた。銀猫も、一緒になって空を見る。どこまでも続く鉛色は、陽平と銀猫の気分を一層沈めるようであった。

 

 終業の鐘を鳴らす音が、校舎をつなぐ渡り廊下のほうから聞こえてくる。廊下側の曇り硝子に放課を告げてまわる用務員の姿が写るや、子供たちは急にさわがしくなった。日本の歴史を教えていた年配の教師が、苦笑まじりに教本を閉じる。それを合図に級長が号令をかけ、子供たちはわあっと歓声をあげた。「こうちゃん、ベエゴマやろう」

「竹馬がいいよ」

「みよちゃんちで、おままごとするって」

「そんならお人形もってくわ」

 子供たちの楽しそうな声は教室の硝子窓を抜けて、枝だけになった桜の梢にうずくまる銀猫にも聞こえてくる。おしゃべりと遊びの約束にせわしない子供たちは、かばんに道具を詰めるのももどかしく、めいめい教室を飛び出して行く。掃除当番が机を片付けるなか、陽平はそっと席を立った。友達になってくれる子はいないのか、寂しそうに教室をあとにする。だがその背中には、寂しさよりなにか恐怖のようなものが張りついていた。

 それが気になった銀猫は急いで枝から降り、ほかの子供たちに見つからないよう、遠まわりして校門へ向かった。すると案の定、陽平は近所の腕白少年たちにかこまれていた。

「やーい、おばけがきたぞォ!」

 がき大将風情の少年が発する囃し言葉は、鋭い刃物のように陽平の心を切り裂いて行く。一人が悪口を言いはじめると、まわりの少年たちも遠慮しなくなった。

「うわァ、気持ちわるい手」

「くさってんだよ、きっと」

「さわったらうつるぞォ」

「きったねぇ」

 行きあわせた少女たちは気まずそうに顔を見あわせて、一人、また一人とその場から離れていく。あわれみと奇異の視線が、陽平の左手に注がれていた。陽平はこぶしをかたくにぎりしめ、袂を押さえて立ち往生している。するといきなり、一人の少年が勝手に陽平のかばんをあけて、なかから厚紙で作った飛行機をつかみ出した。複葉機を模したそれは、今日の工作の時間に陽平が懸命に作ったものだった。

「あっ、かえしてよ!」

「へんだ! おまえばっかり先生にほめられて、生意気だぞ」

「そうだそうだ」

「壊しちゃえ!」

 銀猫や陽平が止めるまもなく、少年たちは紙飛行機を足でめちゃくちゃに踏みつぶした。機体がひしゃげ、翼が破れ、尾翼がはずれる。陽平は見る影もなくなった飛行機をひろって、そっと胸に抱いた。それがしゃくにさわったのか、先刻の一番大柄な少年が陽平を突き飛ばした。

「手なしおばけ!」

 転ばされた陽平は、それでもすぐに立ちあがり、全力で走り出した。銀猫も塀から塀へ飛び移りながら、そのあとに続く。

「あ、手なしおばけがにげるぞ!」

「やっつけろ!」

 逃げまどう陽平の頭と言わず足と言わず、小石の雨が降りそそぐ。悪口と石をぶつけてくる少年たちのなかには、一つ下のいとこである信夫の顔もあった。もとからあまり行き来がなかったせいか、それとも叔母の気持ちが影響しているのか、信夫も敏夫も、陽平と目があっただけで露骨に嫌そうな顔をした。

「どっか行っちゃえ!」

 陽平を突き飛ばした少年がこぶし大もある石を投げようとする。銀猫は夢中で、その手にかみついた。「うわぁっ、猫がかんだぁ!」

 銀猫はその少年が大騒ぎしているあいだに、急いで陽平のあとを追って逃げた。子供とは言え、このくらいの大きな少年たちに悪意を持ってつかまえられては、ただではすまない。怒った子供たちがやいやいと追いかけてくるなか、銀猫と陽平はひた走った。途中から追い越した銀猫は、陽平を誘導した。陽平は銀猫ががき大将にかみついたことに気づいたのか、誘われるまま、あとについて走った。

 銀猫はかねて考えていた通り、麻布の十番町に向かって駆けていた。しばらく走るうちに陽平の息があがったのに気づいて、ピタリと立ち止まる。あの少年たちも、ここまでは追いかけてこないようであった。

「ここ……どこ?」

 苦しい息をなだめて、陽平はあたりを見まわした。銀猫はいたわるように、その足に身体をすりよせた。「おまえ、さっきはぼくを助けてくれたんだよね。ありがとう」

 そっと伸ばされた陽平の手に、銀猫は自分の頭を押しつけた。陽平は嬉しそうに銀猫を抱きあげ、金茶色に輝く瞳をのぞきこんだ。

「それにしてもきれいな猫! 銀色の毛に金色の目だなんて、日本の猫じゃないよね」

 もしかして独逸の猫かな、と言って、陽平はくすくす笑う。銀猫は陽平にはわからない言葉で、そうよ、と返事をした。

「おまえ……」

 薄曇りの空のような美しい銀色の毛並みと、きらきらと輝く満月のような瞳。陽平は自分の腕に抱いた銀猫の顔を、つくづくと眺めた。

「ぼくがこわくないの?」

 返事のかわりに、銀猫は陽平の頬をぺろりとなめた。たまらなくなったのか、陽平は銀猫をぎゅっと抱きしめた。胸にたしかな温かさが生まれ、陽平と銀猫はしばらく声もなく、それを味わった。

「あのね、ぼくね、学校の勉強では理科と工作が一番好きなんだ。前にいた本所の小学校じゃあね、展覧会で何回も金賞をもらったんだよ。今日の飛行機も頑張って作ったんだけど……こんなになっちゃった」

 つぶれた飛行機をふところから取りだすと、陽平はそれを地面に置いた。それと一緒に銀猫もおろして、わかれの合図にと手を振った。

「ぼく、もう平気だよ。ありがとう」

 だが銀猫はその場を動こうとはせず、背筋をピンと立てて、陽平の前に座っていた。

「ぼくはいいんだ、もう少しここにいるから。おまえはもうお帰り」

 陽平がそう言うと、銀猫は少し歩いて立ち止まり、首をめぐらせて陽平を見た。あとは陽平が動かない限り、なにを言われてもその場を離れようとしなかった。

「困ったなぁ……どうしてお家へ帰らないの?迷子なの? それとも野良なの?」

 陽平がしぶしぶ立ちあがるや、銀猫は待っていたとばかりに走り出し、少し進んでまた振りかえった。陽平は西の空を染める夕日とそれを受ける銀猫に交互に目をやり、どうしたものかと迷っている。銀猫が一声あげると、陽平はついに制帽をかぶりなおした。

「わかった。ぼくも行くよ」

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