夕暮れ時の肌寒さが、秋の深まりを告げる。
小路に並ぶ家々の垣根からは色づきはじめた紅葉や銀杏の葉がこぼれ、夜空は日に日に透明さを増していく。小走りに路地を行きながら、怜は星の瞬きする夜空を見あげた。宵闇の濃さから言って、六時はとうにまわっているように思える。透と約束した帰宅時間に、また少々遅れてしまったようだった。
(わたしったらだめね、つい遊びが過ぎて)
苦笑まじりに角を曲がろうとして、怜は急に足を止めた。
「泣き声?」
どこかそう遠くないところから、子供の泣き声が聞こえてくる。それは聞いているほうが切なくなりそうな、痛々しい泣き声だった。
「だれ? だれなの、泣いているのは」
あたりを見まわすが、陽の落ちたあと、人の姿など見えはしない。耳をすましてみようとして、怜はそれが肉声ではないことに気づいた。心の声──だれかの心が助けを求めて悲鳴をあげている。怜は胸に手をあて、この近くにいるはずの声の主を探して、そっと目を閉じてみた。すると心を澄ませるにつれ、まぶたの奥にある風景が浮かびはじめた。
(空地……ああ、この先にある空地だわ)
数間先にあるさびれた空地を思い浮かべるや、もう怜は駆けだしていた。月あかりを頼りにのぞいて見ると、そこには家が十軒は立ちそうな広い空地が広がっていた。柵を成すかのように枯れすすきが並び、茶色く乾いた茎を長く伸ばしている。怜は枯れすすきをかき分け、その先に目をこらした。空地の隅に、ひざをかかえている一人の少年が見える。先ほどからの悲痛な泣き声は、その少年から伝わってくるようだった。怜は思わず、その少年に駆けよった。
「どうしたの?」
小学校の上級生といった風な少年は、ハッとなったように顔をあげた。
「…………」
言葉もなく、ひどくおびえた目で怜の顔を見つめている。怜はその警戒を解くように、やわらかく笑ってみせた。普段なら肌の色や目の色髪の色で逆に怖がられてしまうのだが、暗かったことが幸いしてか、少年は逃げ出さなかった。だがやはりなにも応えず、少年は力なくうつむいて、黒い地面に目を戻した。
「ねえ、ぼうや、もうこんなに遅いわ。そろそろお家に…………」
そう言いかけた怜の目が、少年のひざこぞうに向かった。着物の裾からはみだしたひざに、ひどいすり傷ができている。怪我のわけを聞こうとしている怜に気づいて、少年は裾をぐっとひっぱった。そして左こぶしをかため、袂をギュッと押さえる。怜が見るともなしに見てしまった少年の左手は、小指と薬指が欠けていた。それに続くひじから下にも、大きな火傷のあとが残っている。
そうした傷のことにはふれられたくないのか、少年はくちびるをさらにきつく結んだ。怜はその横にそっとかがみこんで、優しく手を差しだした。
「もう、男の子はしょうがないわね。怪我が勲章だなんて言っているんだから」
よく見ると膝だけではなく、身体のあちこちに生傷がある。怜はワンピイスのポケットを探って白い手巾を取り出すと、それを少年のひざに巻いてやった。
「あらあら、着物まで破いちゃって。それでお家へ帰り辛いのね? いいわ、繕ってあげるから、わたしの家へいらっしゃい」
「で、でも……」
おどおどした口調で、少年が返事をする。ようやく口を聞いてくれたのを妙に嬉しく感じながら、怜は少々強引に少年の手を取った。生傷だらけの少年の手は、夕方の風にすっかり冷えきっていた。
「いいからいらっしゃいな、すぐそこなの。遠慮することなんかなくってよ」
怜がもう一度手をひっぱると、少年はまだどこか遠慮がちにしながらも、立ちあがった。制帽と着物についた砂を払って、すり切れた肩かけ鞄をかつぎなおす。怜は少年の支度が整うのを待って、手をつないで歩き出した。「ね、わたしはレイよ、霧原怜」
「ぼく、あの、石川陽平です」
「陽平くん? とってもいいお名前ね。この近くに住んでいるの?」
「ぼく……」
答えようと口をひらきかけた陽平の肩が、突然、がくがくと揺れはじめた。真冬の庭に放り出された小犬のように、全身をふるわせて立ちすくむ。なにかを必死にこらえている陽平の様子に、怜は胸を突かれた。
(この子)
刹那、陽平の痛いほどの悲しみが怜の心にも伝わってきた。
(声を出して泣いていないんだわ)
急いでひざを折り、怜は陽平の小さな背を抱きしめた。陽平のような切ない泣きかたを、怜は良く知っていた。あまりの辛さに涙を忘れ、深すぎる悲しみに声が出ない──それはかつての透と同じ泣きかたであった。
「陽平くん、辛かったのね」
「……ひ……っく……」
「陽平くん、だれだって泣きたいときがあるものだわ。男の子だって、悲しいときは泣いていいのよ」
こらえきらず、陽平はとうとう大声をあげて泣きはじめた。なにか言おうとしているのだが、嗚咽がもれるだけで少しも言葉にならない。怜は陽平を胸に抱き、思いつく限りの言葉をかけてやりながら、ただひたすらにしゃくりあげる小さな背中をなでてやった。
「今は思いきり泣いて、涙がぜーんぶ外に出ちゃったら、そうしたらまた元気になってね。それまではわたしが、ずっとずっとこうしていてあげるから」
悲しみは悲しみとして外に出さなければ、決して癒されることはない──だがどんなに深い悲しみも、涙という雨になって降りだしてしまえば、それがどれほどひどい土砂降りだとしてもやむのを待つのは辛くなかった。
(だってやまない雨がないように、癒えない悲しみもないんだもの)
それは半ば希望にも似た、怜の信念だった。
「おかあ……さ……ん……!」
陽平の心に応えるように腕に力をこめるや、怜の心に様々な幻影が一度に飛びこんできた。暗い部屋、冷たい水、傷痕の痛み、叱りつけてくる痩せた中年女──たくさんのものが視えてくる。陽平の悲しみを少しでも軽くしてやろうと、怜は大きく心をひらいた。奔流のように流れこんでくる悲しい記憶を受け入れながら、怜は陽平を精一杯抱きしめた。
◆
ほんのわずかな音も立てないよう、細心の注意を払って歩いていく。床の冷たさを足の裏に感じながら、陽平は台所に続く引き戸をあけた。
「お水……」
雨夜の闇のなか、手探りで飲み水の入った甕を探す。聞こえるのは蕭々と降りしきる秋雨の音と、土間を踏む自分の足音だけだった。
台所の情景をおぼろげに思い浮かべながら、陽平は手を伸ばした。その先に目ざしていた水甕を見つけて、思わず笑みがこぼれる。飛びつくように駆けよるや、陽平は柄杓になみなみと汲んでひと息に飲みほした。すきっ腹にしみるのを我慢して二杯目の半分まで飲むと、ようやく人心地ついたような気分になる。これで、腹の虫もしばらくは黙っているだろう。陽平は柄杓をもとの位置に戻すと、来たときと同じ忍び足で、そっと台所から抜け出した。そのままあてがわれた部屋へ向かおうとして、陽平はかすかな話し声を耳にした。振りかえると、居間にまだあかりがついていた。話し声はそこから聞こえてくる。
淡い興味を覚えて、陽平は居間のほうへ近づいていった。今までよりももっと慎重に足を運び、息をするのすらひかえめにして、陽平はそのひそひそ話に耳をすませた。
「まったく……なんだって言うの、あの子は」
あの子、というとげとげしい言葉に、陽平の心がビクリとおびえる。それが自分をさしていることは、考えるまでもなかった。
「だいたい、なんだってうちが、あんな子を引き取らなくちゃなんないのかねぇ。あんな疫病神の子をさ!」
返事はない。主人はおおかた、むっつりと黙りこんで煙草でもふかしているのだろう。
「うちにはもう、三人も子供がいるってのに。あの子まで食べさせていく余裕なんて、これっぽっちもありゃしないわ」
「三人しか、だ。うちが一番子供が少ない」
「本家の上の子なんか、とうに一人前じゃないのさ。うちの信夫はまだ四年、敏夫は三年。貞子だって春からは学校に上がるっていうのに……食べ盛り三人も抱えて、こっちだっていろいろと物入りなんだから」
「あと一年半だ、少しは我慢しろ。学校が終わったら、どこか奉公にでも出しゃいい」
その意見を、妻は鼻で笑った。
「あんな片輪の子、どこの物好き親方が引き取るんだか」
バサバサと新聞をたたむ音がする。寝るぞ、という低い声。不満を前面に押し出した嘆息。少年は暗い廊下をつま先で走り、台所わきの、半分以上が物置になっている部屋へ駆けこんだ。窓一つない、息苦しいだけの三畳間が、陽平の唯一の居場所だった。古箪笥や塗りのひび割れた唐櫃が大きく幅を取るなか、あてがわれた薄い布団を敷けば、それでもう一杯だった。陽平は枕に突っ伏すと、声を殺して泣きはじめた。涙をぽろぽろ流しながら、お母さん、お母さん、と心のなかで叫び続ける。しかし母の顔を思い出そうとするたび、陽平は赤い炎の記憶に邪魔をされた。
「お母さん……火……!」
陽平の額に脂汗がにじむ。鼓動が早くなる。忘れようと閉じこめていた半鐘の音が、耳もとで聞こえてくる。あの悪夢が陽平の心によみがえるまで、そう時間はかからなかった。
◆