一
てんてん手鞠、良い手鞠…………。
子供の遊び歌ってものは、いつだって心をなごましてくれるもんです。私は殊に、この手鞠歌が好きでした。
「ねぇ、ついてばっかじゃつまんないわ」
そう言い出したのは、おまさ坊です。
目なんかくりっとして、本当に可愛い盛りでしたよ。
「今度は投げっこして遊びましょ」
「ええ、良くってよ」
「じゃあ、正子ちゃんが投げてね」
相談はあっと言うまにまとまって、仲良し三人組のおかっぱさんが、赤い鼻緒の下駄をカタカタ、通りのはしまで駆けて行きます。 おまさ坊は、子猫の尻尾みたいなおさげをゆらして、鞠をぽおんと投げました。
ですが────。
「いやぁだ、正子ちゃんったら!」
「松の枝にひっかかってしまったじゃない」
おまさ坊よりひとつ上の鹿子リボンの子が、りんごのほっぺをプッと膨らまして、なじります。私が落としてやっても良かったんですが、そんな野暮はしやしません。なぜって、おまさ坊は、わざとあさってのほうへ鞠を投げたんですから。
「ねぇ、どうするの? あんなに高い所じゃ、取れっこないわ」
「平気よ、圭太に頼むもの」
おまさ坊はおさげをかきやると、枝折戸を抜けて、勝手口のほうへ駆けていきました。 そして内番頭の迷惑顔も気にかけず、自分より幾つか歳かさの少年の腕をひっぱってきました。圭太って名の、小枝みたいに肉づきの悪い、けれどはしっこそうな子です。
これがおまさ坊の大の気に入りでしてね、ほかに兄弟もなかったもんですから、自然、あにさんみたいなもんだったんでしょう。圭太にしたって奉公に来てからこっち、まわりと言やァ大人ばっかりで、さびしくって仕様がない。おまさ坊に用を頼まれると、本当は嬉しいんでしょうにね、渋柿にあたったみたいな面をして、いやいややってきたもんです。
おまさ坊はそんな圭太の様子がおかしくって、いろいろ面倒ごとを作っては、その始末を頼んでみるという塩梅。そうでもしなけりゃ、トトさんやカカさんがうるさくって、かないやしませんでした。圭太はおたなの仕事が大事、邪魔をしちゃァいけないよってね。
「圭太、圭太、あの鞠を取ってちょうだい」
おまさ坊は圭太の袂をつかんだまま、松の梢を指さして言いました。二人の女の子も垣根の下にやってきて、あどけない目を、見えかくれする鞠に向けます。
「ほら、早く早く」
せっつかれて、圭太は幹によじのぼりはじめました。
男の子だもんで、するするっと。
筋ばった腕を伸ばしてひょいと突つくと、鞠はおまさ坊の手のなかに、ぽとんと落ちました。
「ありがとう、圭太」
おまさ坊のえくぼを見て、かぁッと火照る圭太の頬。圭太はぺこりと頭を下げるや、井戸端へ駆けて行きました。うちは帯揚げやら半襟やらを、職人半分で商う店なもんですから、松脂のついた手なんかで戻っちゃァ、物差し片手の番頭に、こッぴどく叱られちまいます。おまさ坊はその背中が気になったんでしょう、となりのおかっぱさんに鞠をおしやって、圭太のあとを追っかけました。
圭太は手桶に張った水のなかで、手をゴシゴシやっとりました。べっとり飴色した松脂は、冷たい水じゃ、落ちやしません。おまさ坊は台所から石鹸をひっつかんできて、圭太に渡してやりました。圭太は黙って受け取ると、泡だらけの手を、桶のなかへポチャンと沈めて。
圭太が黙ってるもんで、おまさ坊もしゃべれませなんだ。ああいうのはなんと言いますか、見ているこっちのほうが、むずっこくなっちまいますね。
「きれいになった?」
うんとうなずき、圭太は前かけで手を拭こうとして、はたと止まりました。前かけも泥と松脂で、真っ黒だったんです。見かねたおまさ坊は、袂からきれいな裂地の手巾を出し、圭太の手のひらに乗っけてやりました。
「あげるわ。鞠を取ってくれたお礼よ」
「だめです。俺、怒られちまいます」
「あら、だれに? だれが怒るの?」
「それは…………」
「だぁれも圭太を怒りゃしないわ。じゃあね」
おまさ坊はおさげをゆらして笑うと、友達が待っているほうへ戻っちまいました。あとに残された圭太は、手巾をどうしたら良いのかと思案顔。そうしてややあって、大事そうにふところに仕舞いました。
可愛いじゃありませんか。
この頃、圭太はようよう十四で。尻の青い小坊主には、この照れ臭さがなんであるのかさえ、わからなかったんでしょうねぇ。
いまの話は、もう幾歳まえのことになりますやら。私にとっちゃァ、つい昨日のことのようですがね。年寄りになりますと、春秋の過ぎるのはだいぶんゆっくりのように思われます。だのに、あとで振りかえると、あっと言うまなんですね。
どの季節も、私はおまさ坊と一緒でした。 笑うのも泣くのも、怒るのだってずうっと見てきましたとも。それにしたって、女の子の育つのは早いこと。あればっかしは、男も追っつきゃしませんよ。
ですけどね。
つい最近まで、そのおまさ坊が、すっかりふさぎこんじまってたんですよ。なんやかんやで、ひと月ばかりは大好きな学校も休みがち、あんな熱心だった三味のさらいの音も、聞こえてきません。
おや、三味じゃおかしいですかね。
ここいらで坂道小路のあいだから、琴でなくて三味の音がするなんてのは、うちくらいなもんでしょう。稽古は、ばばさまがつけとります。今でこそ、こんな堅気のおたなの御隠居さまですが、実はばばさま、清元の許し状を持った芸者の出でしてね。それが堅気の店に嫁入りしたいきさつなんてのは──いえ、つまらんものです。なんせ、ずいぶん昔の話ですから。
「いや! なんにも欲しくないわ、出てって」
あれは、たしか神無月もなかばを過ぎた頃でした。おまさ坊が、また晩飯を抜くのなんのと言っとりまして。我儘を叱るカカさんの声がするたんび、なんとかしてやりたいとは思うんですが、私にはなんの力もありゃしません。いつだって、はらはらしながら見とるだけでした。
「正子、いいかげんになさい」
「なにをどう、いいかげんにするって言うの? それはトトさんとカカさんのほうよ!」
「正子!」
カカさんの声が、ちっとばかしきつくなったときでした。それを押しやって、ばばさまがおまさ坊の部屋に入ってきました。
「これ、そんなに怒鳴るもんじゃァないよ」
「お義母さん、またそんな……」
「婆が良ゥく言うて聞かせようから」
おまさ坊がばばさまに抱きついたもんで、カカさんはふうッと大きくため息ついて、奥のほうへ戻っちまいました。カカさんの足音がふすま向こうに遠ざかったのを聞くと、おまさ坊はようやっと顔をあげて。ばばさまがおさげ頭をなでなで、あくびでもするみたいに笑ってやると、おまさ坊は首をふるふる、そのひざにもういっぺん突っ伏しました。
「ばばさま、あたし、お見合いなんかしたくない」
おまさ坊の心痛の種と言ったら、これでした。トトさんとカカさんが、見合い話を進めてたんです。
渋谷の家業はせがれで四代目、後継ぎと言やァ一人娘のおまさ坊がいるきりですから、早いとこ養子なりなんなり、決めちまおうってんでしょう。実際、あと一年して女学校が終わったら、すぐにでも祝言を挙げさしちまう考えでした。
だけどおまさ坊は、それが嫌で嫌で、仕方なかったんです。
「そうかィ、そうかィ。おまさ坊は、だれぞ好いた人でもいるのかェ?」
そう聞かれて、おまさ坊は黙っちまいました。
いるにはいるが答えられぬ。
ばばさまのほうでも、本当は相手がだれだか知っとるんです。ばばさまはそれを確かめるみたいに、おまさ坊のすべすべした手を握りました。
「圭太のことかィ」
おまさ坊はこくり、うなずいて。
けれど肝心の圭太は、もう四年も前にここを出とりました。
「だって約束したんだもの。大きくなったらお嫁にしてくれるって、約束してくれたんだもの……!」
おまさ坊は、ばばさまのひざにすがり、細い眉をきゅっと寄して。ばばさまはと言えば、口をもごもごさして、なぐさめるばかりです。おまさ坊たちに味方がなくって可哀相ですが、私がのこのこ出てったって、してやれることなんぞありません。私はなんともいたたまれなくなって、家から出ちまいました。