【第3回】 | マイナビブックス

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 さて、外に出たところで、これと言って行くあてもありませんでした。

 どこの家でもそろっと晩飯時という時分でしたから、そぞろ歩きをしていますと、あったかな夕餉の匂いと子を呼ばうおっかさんの声、それに遊び足りない坊主たちの影法師が、ちらちらと重なって。子供ってのは相手の顔が見えなくなっても、まァだ遊びたいと見えます。

 私は知らず知らず頬をゆるませながら、あちらの路地、こちらの路地と抜けて行きました。たまに犬ころなんぞが吠えてきますが、それっくらいかまやしません。気の向くまま歩くうち、私はいつしか、大通りに出てました。露店の並んだ広い表通りにそって、枝分かれしたように細い路地が伸びて。その道々は馴染みの坂を幾つか越えるうち、じきに出会ったり重なったりします。

 ええ、十番町ですよ。

 麻布で一等にぎやかな。

 どこの商店もまだ仕舞ってなくて、名物の露店も、片付けをはじめたばっかしというところでした。

 しかしあのあたりは、昔ッから変わってませんね。私は帰りを急ぐ人ごみに、なかば流され、なかば逆らうようにしながら、通りの端まで行きました。そっちへ行くと呉服屋が、そう、富屋さんです。あそこはうちのお得意さんの一つでして、半襟やら帯締めやらを納めてんですよ。

 いえ、私はとうに商いからは手を引いとります。せがれがやっとるわけです。呉服屋の向かいは履物屋と瀬戸物屋で、こっちはうちと同じように、作り半分の商い半分でした。私はなんとはなしに、履物屋と瀬戸物屋ではじまる、小暗い路地をのぞいてみました。するとそこに、ちょいと風変わりな店があったんですよ。赤銅仕立の張り出し看板があって、そばにはどうやら人影も見えました。おまさ坊とおんなじくらいの娘さんが三、四人と、やっぱりそれくらいの小僧っ子と。日も落ちてましたし、だいぶん遠目でしたから良くは見えませんでしたが、小僧っ子のほうは洋装をしとりました。私は珍しいもんに行き合うと見ずにはおれないたちでして、その子らに気づかれんよう、そろそろと歩って行きました。

「はい、これ、切符。どまんなかの特等席よ」

「よろしいんですか、いただいてしまって」「いいの、いいの。ね、おはっちゃん」

「た、たまたま余ってたんだよ、たまたま。いずれ空いちまう席なんだもの、タダなんだし、もらってくれりゃいいじゃないか」

 ありゃァ、踊りかなんかやってんでしょうかね。ちっとばかり照れたように言ったのは、背筋のピンと伸びた、立ち姿のなかなかさまになる娘さんでした。

「では、お言葉に甘えて」

「じゃあ、きっと観に来てよ。待ってるから」

「はい……必ず」

「きゃあっ、嬉しい!」

「お滝姐さんもみんなも、大喜びだわァ」

「もう、喜んでるのはお富ちゃんでしょ」

 女の子たちはめいめいに手を振って、小僧っ子と別れて、駆けていきます。ずいぶん近くまで寄りましたんで、さっきの洒落た看板もはっきり見えました。

 『夜想曲』とありましたっけね。

 カフェーというやつでしょう。看板の頭に下げてある角灯も、うぐいす色した敷石も、なんとも垢ぬけた感じでした。

 その看板の下で、見送りを終えた小僧っ子が、ふところから細っこい、錐みたいなもんを取り出しました。で、それを片手に、扉やら敷石の端やらになんか書きはじめたんです。 いえ、彫っとったんでしょうかね。矢印や折れ釘みたいな模様を、カリカリやっとるんです。なにをはじめたんかと見とりますと、その子がふいに、こちらに向きました。

 驚きましたね。

 私と目が合ったんですから。

「……いらっしゃいませ」

 そのおとなしそうな声は、陽炎のようで。

 私はしばらく、自分にかけられた言葉だと気づかんかったくらいです。それもそのはず、ここんとこ引きこもったきりで、滅多に他人とは話してませんでしたから。

「まだ、よろしゅうござんすかね」

 こっちもどぎまぎして聞いてみますと、小さく笑ってうなずいてくれました。さっきは小僧っ子などと言いましたが、そんな下町じみた感じじゃ、到底ありませなんだ。宮さまの血と言われても疑えぬような、そうでなけりゃ、おとぎ話に出てくるどこかの国の王子さまみたいな、すうらりとした少年でしてね。 もう暗い時分でしたから、しかとは覚えてませんが、あいのこ──そういうのじゃなかったかと思いますね。肌の白いの、背の高いので言ってるわけじゃァ、ありません。すっきり伸びた鼻筋といい、まなこのくぼみ具合といい、あの顔つきは、異人さんの顔つきに似てましたよ。

 それに髪の毛の色がね、どっかしら焦げ茶が入ってて、黒いってのとはちょいとちがう。

「どうぞ、お入りください」

 少年にいざなわれて入ってみると、なかは存外、暗かったですね。狭かったせいかもしれませんし、壁際にずらッと並んだ、本棚のせいだったのかもしれません。そこに椅子が八つと、卓布の敷かれた丸テエブルがふたつ、こぢんまりと。

 古びた柱時計の向かいには暖炉があって、帳場の奥には、小さな流しや戸棚なんかが見えました。蝋燭の灯はゆらゆらと、雪に照りかえしたお月さんの光が、ぼんやりとただよってるよう。

 私は本棚に横っ腹と背中を取られたような、そんなすみっこの席に、おっかなびっくり座りました。

 ええ、こんなところに来るのは初めてでしたよ。本当なら私みたいなもんは迷惑なんでしょうが、少年は嫌な顔ひとつせずに、迎えてくれました。

「お客さま、なにをお出しいたしましょう。珈琲はいかがですか?」

「いえ、あの……普通の茶なんてのは、ありますかね」

「ございます。中国茶ですが」

 少年はなんともやわらかな物腰で言って、帳場の奥に立っていきました。

 しばらくすると、どっかしら番茶に似てないでもない、めずらしい支那茶の匂いがただよってきました。少年はぐい飲みより小振りで、猪口よりは大きいような、小さな茶器を茶卓に乗せて持ってきました。ありゃ、本物の支那の陶器かもしれません。白磁に藍色で、山水の絵がついてました。

 少年が茶わん蒸しのふたみたいなのをどけると、そのままごとみたいな湯飲み茶碗から、支那茶の良い匂いがふんわりと浮いてきて。 洋装しとる異人のアイノコと、支那の茶と。

 そんなのが、なぜだか妙にしっくりくる風景でしたね。あの少年の持つ気配──みたいなもんのおかげだったんでしょう。少年は私に茶を出してしまうと、語りかけるでもなく、向こうの流しで洗い物をはじめました。私のほうとて、なんの話をどう切り出したものか惑ううちに、所在のなさがつのります。

 そんなときでした。

 出入り口から、鈴の鳴るきれいな音が聞こえてきたのは。

「なんだい、相変わらず繁盛してないな」

 どこぞで聞いた声だと思って、私は新たな客の顔を見ました。

 聞き覚えがあるはずです。その男の顔は、私も良く知っとりましたから。鹿島屋の清治っていう植木職人の若衆で、うちの庭木も、親父さんの代から手入れを頼んでたんですよ。

「鹿島さん。いらっしゃいませ」

 少年の声は、ほんのちっとだけ明るくなったみたいでした。ここでは馴染みの客なんでしょう、鹿島のせがれは私に気づくこともなく、帳場の背高の椅子に腰を下ろしました。仕事帰りだったんでしょうかね、足もとに、道具箱をどっかりと置いて。

「おい透、お怜さんは?」

 出された布巾で手と顔とをごしごし拭いながら、鹿島のせがれは、落ち着きなく帳場の奥に目をやりました。私はついにお見かけすることはなかったんですが、この透さんという少年には、妙齢の御姉上がいらしたようでした。

「まだ帰っていません。今日はニコライ堂まで行ってみると言っていましたから、少し遅くなるかもしれません」

「おいおい勘弁してくれよ。六時半過ぎなら絶対に帰ってるって言ったの、あんただろ」

「僕、絶対だなんて言っていませんが……」

「言ったよ言った、この耳でちゃんと聞いたぜ。まあったく、俺が来る日に限って留守とくる。お怜さんも、つれねぇよなあ」

 透さんは苦笑まじりにあやまって、鹿島のせがれに湯気の立つ珈琲を出しました。あの独特の、深みのある匂いが、こっちまでやってきます。鹿島のせがれはそれをひと口すすり、ぶるっと身をふるわせました。

「やけに冷えるな……まだ十月だってのに」

 私が席を立とうとすると、透さんがチラリと目を流してきました。そして口だけ動かして、どうぞご遠慮なく、と言うんです。私はうなずいて、もうしばらく邪魔しとることにしました。よっぽど寒いのか、鹿島のせがれは印半纏をかき合わせ、手をこすりこすり、世間話をはじめました。

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