さて、外に出たところで、これと言って行くあてもありませんでした。
どこの家でもそろっと晩飯時という時分でしたから、そぞろ歩きをしていますと、あったかな夕餉の匂いと子を呼ばうおっかさんの声、それに遊び足りない坊主たちの影法師が、ちらちらと重なって。子供ってのは相手の顔が見えなくなっても、まァだ遊びたいと見えます。
私は知らず知らず頬をゆるませながら、あちらの路地、こちらの路地と抜けて行きました。たまに犬ころなんぞが吠えてきますが、それっくらいかまやしません。気の向くまま歩くうち、私はいつしか、大通りに出てました。露店の並んだ広い表通りにそって、枝分かれしたように細い路地が伸びて。その道々は馴染みの坂を幾つか越えるうち、じきに出会ったり重なったりします。
ええ、十番町ですよ。
麻布で一等にぎやかな。
どこの商店もまだ仕舞ってなくて、名物の露店も、片付けをはじめたばっかしというところでした。
しかしあのあたりは、昔ッから変わってませんね。私は帰りを急ぐ人ごみに、なかば流され、なかば逆らうようにしながら、通りの端まで行きました。そっちへ行くと呉服屋が、そう、富屋さんです。あそこはうちのお得意さんの一つでして、半襟やら帯締めやらを納めてんですよ。
いえ、私はとうに商いからは手を引いとります。せがれがやっとるわけです。呉服屋の向かいは履物屋と瀬戸物屋で、こっちはうちと同じように、作り半分の商い半分でした。私はなんとはなしに、履物屋と瀬戸物屋ではじまる、小暗い路地をのぞいてみました。するとそこに、ちょいと風変わりな店があったんですよ。赤銅仕立の張り出し看板があって、そばにはどうやら人影も見えました。おまさ坊とおんなじくらいの娘さんが三、四人と、やっぱりそれくらいの小僧っ子と。日も落ちてましたし、だいぶん遠目でしたから良くは見えませんでしたが、小僧っ子のほうは洋装をしとりました。私は珍しいもんに行き合うと見ずにはおれないたちでして、その子らに気づかれんよう、そろそろと歩って行きました。
「はい、これ、切符。どまんなかの特等席よ」
「よろしいんですか、いただいてしまって」「いいの、いいの。ね、おはっちゃん」
「た、たまたま余ってたんだよ、たまたま。いずれ空いちまう席なんだもの、タダなんだし、もらってくれりゃいいじゃないか」
ありゃァ、踊りかなんかやってんでしょうかね。ちっとばかり照れたように言ったのは、背筋のピンと伸びた、立ち姿のなかなかさまになる娘さんでした。
「では、お言葉に甘えて」
「じゃあ、きっと観に来てよ。待ってるから」
「はい……必ず」
「きゃあっ、嬉しい!」
「お滝姐さんもみんなも、大喜びだわァ」
「もう、喜んでるのはお富ちゃんでしょ」
女の子たちはめいめいに手を振って、小僧っ子と別れて、駆けていきます。ずいぶん近くまで寄りましたんで、さっきの洒落た看板もはっきり見えました。
『夜想曲』とありましたっけね。
カフェーというやつでしょう。看板の頭に下げてある角灯も、うぐいす色した敷石も、なんとも垢ぬけた感じでした。
その看板の下で、見送りを終えた小僧っ子が、ふところから細っこい、錐みたいなもんを取り出しました。で、それを片手に、扉やら敷石の端やらになんか書きはじめたんです。 いえ、彫っとったんでしょうかね。矢印や折れ釘みたいな模様を、カリカリやっとるんです。なにをはじめたんかと見とりますと、その子がふいに、こちらに向きました。
驚きましたね。
私と目が合ったんですから。
「……いらっしゃいませ」
そのおとなしそうな声は、陽炎のようで。
私はしばらく、自分にかけられた言葉だと気づかんかったくらいです。それもそのはず、ここんとこ引きこもったきりで、滅多に他人とは話してませんでしたから。
「まだ、よろしゅうござんすかね」
こっちもどぎまぎして聞いてみますと、小さく笑ってうなずいてくれました。さっきは小僧っ子などと言いましたが、そんな下町じみた感じじゃ、到底ありませなんだ。宮さまの血と言われても疑えぬような、そうでなけりゃ、おとぎ話に出てくるどこかの国の王子さまみたいな、すうらりとした少年でしてね。 もう暗い時分でしたから、しかとは覚えてませんが、あいのこ──そういうのじゃなかったかと思いますね。肌の白いの、背の高いので言ってるわけじゃァ、ありません。すっきり伸びた鼻筋といい、まなこのくぼみ具合といい、あの顔つきは、異人さんの顔つきに似てましたよ。
それに髪の毛の色がね、どっかしら焦げ茶が入ってて、黒いってのとはちょいとちがう。
「どうぞ、お入りください」
少年にいざなわれて入ってみると、なかは存外、暗かったですね。狭かったせいかもしれませんし、壁際にずらッと並んだ、本棚のせいだったのかもしれません。そこに椅子が八つと、卓布の敷かれた丸テエブルがふたつ、こぢんまりと。
古びた柱時計の向かいには暖炉があって、帳場の奥には、小さな流しや戸棚なんかが見えました。蝋燭の灯はゆらゆらと、雪に照りかえしたお月さんの光が、ぼんやりとただよってるよう。
私は本棚に横っ腹と背中を取られたような、そんなすみっこの席に、おっかなびっくり座りました。
ええ、こんなところに来るのは初めてでしたよ。本当なら私みたいなもんは迷惑なんでしょうが、少年は嫌な顔ひとつせずに、迎えてくれました。
「お客さま、なにをお出しいたしましょう。珈琲はいかがですか?」
「いえ、あの……普通の茶なんてのは、ありますかね」
「ございます。中国茶ですが」
少年はなんともやわらかな物腰で言って、帳場の奥に立っていきました。
しばらくすると、どっかしら番茶に似てないでもない、めずらしい支那茶の匂いがただよってきました。少年はぐい飲みより小振りで、猪口よりは大きいような、小さな茶器を茶卓に乗せて持ってきました。ありゃ、本物の支那の陶器かもしれません。白磁に藍色で、山水の絵がついてました。
少年が茶わん蒸しのふたみたいなのをどけると、そのままごとみたいな湯飲み茶碗から、支那茶の良い匂いがふんわりと浮いてきて。 洋装しとる異人のアイノコと、支那の茶と。
そんなのが、なぜだか妙にしっくりくる風景でしたね。あの少年の持つ気配──みたいなもんのおかげだったんでしょう。少年は私に茶を出してしまうと、語りかけるでもなく、向こうの流しで洗い物をはじめました。私のほうとて、なんの話をどう切り出したものか惑ううちに、所在のなさがつのります。
そんなときでした。
出入り口から、鈴の鳴るきれいな音が聞こえてきたのは。
「なんだい、相変わらず繁盛してないな」
どこぞで聞いた声だと思って、私は新たな客の顔を見ました。
聞き覚えがあるはずです。その男の顔は、私も良く知っとりましたから。鹿島屋の清治っていう植木職人の若衆で、うちの庭木も、親父さんの代から手入れを頼んでたんですよ。
「鹿島さん。いらっしゃいませ」
少年の声は、ほんのちっとだけ明るくなったみたいでした。ここでは馴染みの客なんでしょう、鹿島のせがれは私に気づくこともなく、帳場の背高の椅子に腰を下ろしました。仕事帰りだったんでしょうかね、足もとに、道具箱をどっかりと置いて。
「おい透、お怜さんは?」
出された布巾で手と顔とをごしごし拭いながら、鹿島のせがれは、落ち着きなく帳場の奥に目をやりました。私はついにお見かけすることはなかったんですが、この透さんという少年には、妙齢の御姉上がいらしたようでした。
「まだ帰っていません。今日はニコライ堂まで行ってみると言っていましたから、少し遅くなるかもしれません」
「おいおい勘弁してくれよ。六時半過ぎなら絶対に帰ってるって言ったの、あんただろ」
「僕、絶対だなんて言っていませんが……」
「言ったよ言った、この耳でちゃんと聞いたぜ。まあったく、俺が来る日に限って留守とくる。お怜さんも、つれねぇよなあ」
透さんは苦笑まじりにあやまって、鹿島のせがれに湯気の立つ珈琲を出しました。あの独特の、深みのある匂いが、こっちまでやってきます。鹿島のせがれはそれをひと口すすり、ぶるっと身をふるわせました。
「やけに冷えるな……まだ十月だってのに」
私が席を立とうとすると、透さんがチラリと目を流してきました。そして口だけ動かして、どうぞご遠慮なく、と言うんです。私はうなずいて、もうしばらく邪魔しとることにしました。よっぽど寒いのか、鹿島のせがれは印半纏をかき合わせ、手をこすりこすり、世間話をはじめました。