【第5回】二章 卒業、就職 (1) | マイナビブックス

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当たるも八卦当たらぬも八卦

【第5回】二章 卒業、就職 (1)

2017.02.24 | 久根淑江

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 1 一軒の家に四所帯が同居

 

 母と私、妹の三人は、大変な思いをして疎開先からわが家にたどり着いた。

 鹿児島へ疎開するとき留守番を頼んでおいたお向かいには、主人がノモハンで戦死し、未亡人と、会社員の三人の息子さん、女学校を卒業したばかりの娘さんの五人が住んでいたが、私たちが鹿児島に疎開中、息子さんたちもみんな戦地に駆り出され三人とも戦死、未亡人は結婚したお嬢さんのところに引越して誰もいなくなっていた。

 留守番の引き継ぎは手紙で知らせてくれていたが、留守番をしてくれているのは未亡人の知り合いのご夫婦と、女学校を卒業した娘さん二人の四人家族で、空襲で住まいを焼失したとのことだった。

 ところが、私たちが我が家に帰ってみると、未亡人の知り合いの一家だけでなく、他に三所帯、十三人もの人たちが一つ屋根の下に住んでいた。

 八畳の座敷と、六畳の居間に未亡人の知り合いの一家四人、四畳半と二畳には出征家族のその一家の長女と二人の子供、そして私たちが使っていた八畳の離れには、お向かいの未亡人の弟さんたち家族六人が住んでいた。

 空襲で住まいを焼かれて家財を失い、食べ物も、燃料もない時代、そんな一つ屋根の下での生活も止むを得なかったが、家主である肝心の自分たちが、そのため不便な思いをしなければならないのが私には不満だった。

 それに、百坪ほどのわが家の庭を見回すと、玄関脇の桜の樹は辛うじて残っていたが、庭の隅や、隣りの家との堺にあった何本もの桜や、梅の木は燃料にでもされたのか伐られてしまっていた。

 春には花の霞がぐるりと家の回りを囲み、夏には緑の葉を繁らせ、私たちが竿の先に油を浸した布をくくり付け、それに火をつけ毛虫退治をした桜の樹が可哀相だった。自分たち一家も九州で被災し仮住まいを強いられ、そのうえ父や、祖母を失くすという不運に見舞われたが、桜の樹たちも同じように伐られ焼かれてしまっていたのだった。

 子供部屋だった離れの八畳間の濡れ縁には七輪が置かれ、食事時になると、そこに住んでる家族が食事の支度を始めたが、伐ったばかりの生木で炊いているのか燻った煙が庭中に立ち込め、住んでる部屋の天井も煙で燻され黒くなっているのは明らかだった。

 

 家主である私たちが戻ってきたので、お向かいの未亡人が留守番を頼んだ四人家族の一家は、間もなく焼け跡にバラックを建て、出征家族の長女とお孫さんを連れて、その年のうちに引越して行った。弟さん家族もそのうち立ち退くとのことだったが、しかし、その一家はいつまでたっても出て行く気配がなかった。

 しかし、私たちも部屋を貸して収入を得なければならず、そのことを心配してくれた母の友人がちょうど部屋を探していた引揚げ者の一家を紹介してくれたので、渡りに船と空室になった八畳の客間と、四畳半と二畳を貸すことにした。そして、居座っている六人家族にもその旨を伝え、できるだけ早期に立ち退いてくれるよう頼んだ。

 しかし、しばらくたっても六人家族に出て行く気配が見られないので、人を介して立ち退きを要求、その間、一つ屋敷内での嫌な毎日が続いたが、一年近くたって彼らもようやく出て行った。

 部屋を貸すことになった引揚げ者夫婦には、私たちと同じ年頃の息子と、娘さんがいて、母親同士も気が合い、一つ屋根の下で二所帯が何とか暮らして行ける見通しがついたのは一家が疎開先から戻って一年半がたってからだった。

 

〈姉妹揃ってD学園に編入〉

 私たち姉妹にとって住まいのことも大事だったが、それ以上に大変だったのは、今後、通学する学校のことだった。

 私と、妹は二人とも東京にいるときは住まいの近くにある名門校のD学園に通学していたが、そこは正科の授業以外にも徳育・倫理の面で知られ入学志望者も多かった。

 しかし、その年は入学試験日が公立校と重なったため双方を受験することはできず、それに授業料が高く普通の家庭でも苦しいのに、父親がいなくなった家庭の経済状態では入学はほとんど無理に思われた。

 ところが、どうした風の吹きまわしか、疎開する前、私たちがD学園に在学していたことや、疎開先の学校で私が特待生扱いを受け月謝を免除されていたため、引き続き二人とも月謝免除でD学園への編入が許可されることになった。

 しかし、食糧事情のよくない時勢にもかかわらずD学園では農科の実習などに時間を割かず、授業再開時から学業優先の授業が進められており、二人は追いつくのが大変だった。

 ところが、冬を越し新学期に入り、気分一新して勉強に打ち込もうと思ったものの私は反動にも似た状態というか、心のタガが外れたような状態になってしまった。

 疎開先の学校で理数科の時間になるとわれ先に手を挙げ、みんなの注目の的だったあの自分はいったいどこへ行ったのか、東京に戻ってもT先生のことが脳裡にちらつき勉強にも身が入らなかった。

 理数科の時間にも数式や、図解の問題が頭の上を通り過ぎ、とても好成績など望める状態でなく、期末には担任に呼ばれ貴女としたことがいったいどうしたのか、と訓戒を受ける始末だった。優しい女性教師だったが、恋とか、愛とかにはまったく無縁のようなタイプで、私は黙って聞くほかなかった。しかし理由はどうであれ、頑張らなければ、このままでは特待生の資格も奪われてしまう……。

 失ったものの大きさに今さら気づかされたが、しかし、もうどうにもならないことなのだ……。私は、そう自分自身に言い聞かせ、鹿児島の学校の教室で今も教鞭をふるっているだろうT先生の幻影を追い払い勉強に集中するしかなかった。

 外部から見ると原因不明の病気のように見えたかもしれないが、原因ははっきりしており自分一人で治さなければならない病気だった。

 母は、さすがに娘の胸中を察し、誰か会いたい人でもいるのではないか、と気を揉んでくれたが、簡単に口に出せるようなことではなく、頭を左右に振るしかなかった。

 ところが、春休みが終わる頃になると、休みの間、何もせず身体を横たえていたのがよかったか、まるで憑き物でも落ちたように少しずつ気力が蘇り、学校だけは卒業しなければ、そして家族のために一日も早く働きに出なければ、という思いが頭をもたげるようになった。そして、新学期が始まる頃には何とか起き上がれるまでに体調が回復した。

〝事実は小説より奇なり〟というが、この件には次のような後日談がある。

 学校を卒業して二十年近くたち、私も社会人としての経験を積んだ頃だった。

 最近、見なくなったT先生の夢をしばらくぶりに見たので不思議に思っていると、疎開先で親しくしていた同級生からアッと驚くような手紙が届いた。あのT先生が東京に住んでいるという知らせだった。

 彼女の結婚した相手が偶然にもT先生が卒業した大学の後輩で、彼の同窓会名簿から彼女自身も憧れていたT先生の消息がわかった、というのだった。

 終戦直後の混乱期、戦地に出向いていた教員たちがまだ帰還せず教員が不足していた頃、たまたま実家が私たちが通っていた学校に近かったため代用教員をしていたが、その後、大手企業に就職、現在、東京支社に勤務とのことで、自分は同行できないが連絡をとってみたら……と言うのだった。

 そんな連絡を受け取り、またしても私は自分の見た夢が正夢になったことに気をよくした。T先生へのときめく気持ちは変わっていなかったが、あれからもう二十年以上もの月日がたっていた。

 私は当時の友人が先生の所在をご主人の同窓会名簿で知ったこと、いつか機会をつくってお目にかかりたい旨を手紙に書いて送った。

 すると、間もなく先生から日曜日の午後、待っているから来るように、との返事が届いた。

 それで私は、指定された当日、他に出掛ける用もあったので、その用も兼ね先生の自宅に向かった。友人の手紙では先生は既に結婚され、お子さんもいられるとのことだった。

 先生は、自宅の前に迎えに出てくれていた。

 そこに来るまでの道、教壇でのT先生の姿を思い描き心を弾ませてやって来たが、しかし、私の前に現われた先生はまったく見知らぬ男性になり変わっていた。背の高さは昔のままだったが、あの黒々とした艶のある髪や、若さに溢れ輝いていた容姿ではなく、ごま塩頭の中年の男性がそこに立っていた。

 私は、怪訝な表情で挨拶した。

「あなたのことは、しっかり覚えてますよ」

 私の胸に、そのひと言だけが沁み込んだ。

 現実ってこういうものなのか……。あの頃と現在をつなぐ鎹(かすがい)のような物はすでに何も見当たらず、あるのはかつてのビールス菌のような物が心身を侵したという記憶だけだった。

 先生は戸惑ってる私の胸中を察してか、写真の一杯入ったダンボール箱を抱えて現われ、鹿児島時代の写真を探し始めたが、当時、日本はまだ復興しておらず写真を撮れるような時代ではなく、記念写真など見つかるはずもなかった。

 しかし、写真を探す先生の手の指先が目に止まった。それは、まがいもなく、あの理科の実験室でビーカーを生徒たちの前に掲げて見せたときの、あの煙草のヤニで汚れた指先だった。

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