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当たるも八卦当たらぬも八卦

【第4回】一章 鹿児島へ疎開 (3)

2017.02.16 | 久根淑江

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 3 祖母の骨壷を抱えて帰京

 

 授業が軌道に乗り始めると、しばらく廃止されていた英語の授業も復活した。

 英語は、これまでは授業科目の単なる一教科に過ぎなかったが、ガタガタ道の県道をアメリカ兵の乗ったジープが走り抜けたり、日常生活で英語の名入りの商品や、看板などを多く見かけるようになると、英語を学ばなければ日本語だけでは暮らして行けない世の中がそのうちやってくるのではないかというようなことを思い、そして私は英語に強くなり、将来、英語に関係のある仕事で生きて行くことができれば、と考えるようになった。

 

 戦争が終わって半年たち、私たち一家も疎開先を去らねばならない日が近づいてきていた。

 父は生まれ故郷であるこの地で急死、続けて祖母も理由のよくわからない病気で亡くなり、それに兄は鹿児島で学生寮暮らしを続け福岡の学校に通うため、東京に帰るのは母と私、妹の三人だけだった。

 幸い、東京の家は空襲を免れ焼けずに残ったが、東京に帰ってからの暮らしはどうなるのか想像もつかなかった。

「家でも人手が必要だから、アルバイトでもして卒業するまでここに残ったら……」と医者の家に嫁いでいる叔母に言われ、残れるものなら残りたいと気持ちが揺らいだが、母や妹のことを考えると、この地に踏み留まるわけにいかなかった。当時はどこの家庭もそうだったが、母親はみんな専業主婦で、東京に帰ってからの暮らしは私の両肩にのしかかってくるのが目に見えていた。

 T先生への思いは、その後もずっと続いており、生木を裂かれるとはこのことかとも思ったが、しかし、それを防ぐ方法はなく、私は思い詰めた気持ちを抱えたまま東京に帰るしかなかった。

 しかし、その一方で早く東京に帰って本格的に勉強したいという気持ちもあり、そんな自分自身の焦りと、家族との板挟みになって私は悩んだ。

 

 新幹線はまだ開通しておらず、私たちは鹿児島本線を北上し、山陽線、東海道線を乗り継ぎ、翌朝、早く東京に着いたが、三人は東京駅の一つ手前の品川駅で降り、京浜東北線、大井町線(現在の田園都市線)に乗り継ぎ、わが家のある緑が丘駅で下車した。

 駅を出ると、ちょうど学校の登校時間で、女子学生が二人、前方からやってきて傍を通り過ぎた。

 ピカピカに磨かれた靴、スカートの折り目にきちんとアイロンのかかった制服、きれいに櫛けずられたオカッパ頭……今の私には別世界のような女子生徒の通学姿で、息を飲む思いで彼女たちを見送った。

 二年前、鹿児島へ疎開したときの私と同じ年頃の女生徒たちで、自分にも彼女たちと同じような日々があったのを忘れてしまうほど、丸二年の地方暮らしは私をすっかり田舎の娘に変えてしまっていた。

 しかし、変わってしまったのは女生徒たちの装いばかりでなく、東京に帰る列車の中も、そればかりか世相もすっかり変わってしまっていた。

 二年前、疎開先の鹿児島に向かったときの列車の車内は戦時中にもかかわらずまだ秩序が保たれていたが、今回の帰京列車は混乱した戦後の世相そのものだった。

 ちょうど十一月三日、「新憲法発布の日」で、列車が近くに港がある駅に着くと、プラットホームは復員兵たちで溢れ返っていた。引揚げ船で外地から帰国し故郷へ向かう兵隊さんたちで、着古した軍服に背嚢を背負った群れがひしめき合って列車を待っており、列車が到着すると乗降口からわれ先にと彼らはなだれ込んできた。

 駅の助役に頼み列車の切符を入手し座席は確保されていたので心配なかったが、停車時間内に乗り切れないとわかると兵隊たちは窓からも乗り込んできて、車内は足の踏み場もないほどのすし詰め状態になった。

 少し前までは帝国軍人と崇められた人たちが、今、こうして虐げられたような姿で車内にすし詰めになり敗戦の惨めさに耐えているのだった。

 かと思うと、人目を逃れいつの間に乗り込んできたのか、座席の下に動くものがあるので覗くと、垢だらけの手足の浮浪児がジッと身を潜めていた。空襲で家や、両親を失くした少年たちで、都会に生活の場を求めて移動しているのだった。

 しかし、異状に混乱しているのは列車の中ばかりでなく、私の頭の中も、ある衝撃的な出来事で混乱していた……。

 

〈帰京を目前にし祖母も急死〉

「切符は何日頃まで使えるのかね?」

 腹痛を訴えて寝込んでいた祖母は、列車の切符の有効期限ばかり気にしていた。

 六十年以上も東京を離れたことがなかった祖母にとって、初めての地方暮らしの大変さはよくわかっていた。それだけに帰京を目前にして体調に異状をきたした祖母の無念は痛いほどわかった。

「お祖母ちゃん、心配しなくても大丈夫よ。手に入った切符は何かあれば延期してもらえるから……」

 はっきりした保証はなかったが、病床に伏せている祖母を安心させるためにもそう答えるしかなかった。

 東京に戻れる日を一日千秋の思いで待ち望んでいた祖母のためにも、体調が一日も早く戻ってくれるのは出発を目前にした家族みんなの願いだった。

 ところが、祖母の容態は好転する気配がなく、二、三日後、東京に帰る日を目前にして祖母は息を引き取った。病名は「腸閉塞」ということだった。

 東京を離れたことがなかった祖母は、関東大震災は経験していたが疎開先の鹿児島で空襲に遭い、農家で仮住まいしていた期間の生活は大変だっただろうと思う。

 わけても、お風呂が大好きだった祖母にとって、仮住まいの農家の風呂を借りての入浴は大変、辛かっただろうと想像する。納屋の隅にある五右衛門風呂に一人ずつ代わる代わる貰い風呂に行くのだが、いつも本家の泥だらけになった子供たちが入ったあとの残り湯だった。

 しかも、風呂は牛小屋と隣り合わせにあったため風が吹きぬけ、体の弱い祖母は風邪をひくのが怖く、風の吹く日は入浴も控えた。

 それで私は、そんな折、本家の大八車を借りてそれに祖母を乗せ、三キロも離れた所にある温泉場まで連れて行った。

「東京に帰ったらお風呂もあるし、もう少しの辛抱だからね。しっかり掴まっていてね」

 ガタガタ音を立てる凸凹道を大八車を挽きながら祖母に言い聞かせた。

 それなのに、あれほど待ち望んでいた帰京を目前にして病いに見舞われ、願いも空しく祖母はこの世から姿を消してしまった。

 今更ながら、「西の方角に住まいを変えると生命も、財産も失う」と言った「占い師」の予言を身に沁みて感じた。まさに〝当たるも八卦〟だった。

 祖母の遺骨を東京に持って帰るための骨壷が必要になったが、その土地の習慣で死者はすべて土葬で、町のどこを探しても骨壷は見当たらず、仕方なく瀬戸物屋さんで空襲で焼け残った商品の中から使えそうな壺を探すしかなかった。すると蓋付きの小さな壺が見つかったが、お年寄りとはいえ一個では小さ過ぎ、二個求めて骨壷代わりにした。

 火葬場のある町に行くには列車で五つ先の町まで行かねばならず、列車の切符が二枚しか入手できなかったので兄と、私だけが遺体に付き添って火葬場に向かった。

 お骨が焼き上がるのは翌朝になるので、その町にあった親戚に泊めてもらい、小さな二個の壺に祖母の遺骨を入れて、翌日、戻った。

 その二個の骨壷が、足の踏み場もないほど混雑した列車の網棚の上で荷物に挟まれ揺れていた。

 私は、その祖母の骨壷に目をやりながら、帰京を控え慌ただしかった数日間の出来事を思い返していた。

 祖母が亡くなり、急遽、お通夜と、お葬儀の予定が入り、東京に送るため荷造りをすでに済ませていた荷物を再び解かねばならなくなり、東京への荷物の発送はお葬儀のあとの初七日が済んでからになった。

 それにしても〝腸閉塞〟というのは何と呆気ない最期をもたらすのなのだろう。これまで経験したこともないような苦しみを味わった末、アッという間に祖母はあの世に行ってしまった。

 私は、網棚の上で揺れてる〝骨壷〟をあらためて見上げた。

 あまりに急な出来事だったため、まだ夢をみているようで、祖母が死んだことがまだ半ば信じられなかった。

 

 すると、私たちが東京に帰って間もなく、「祖母は占領軍の食べ物に当たって死んだ」という噂が疎開先の町に広がった、という知らせが入った。

 当時、日本中が食糧難の時代で、占領軍から救援物資としてパンの材料となる小麦粉や、トウモロコシの粉、肉の缶詰などが放出され、私たちが住んでいた町にも肉や、コンビーフの缶詰が各戸に配られた。

 母も、私も引っ越しの準備で忙しく食事の支度にまで手が回らず、家族はそのコンビーフに野菜を添え食事代わりに毎日のように食べた。

 だが、私たち若い者には影響はなかったが、身体の衰弱していた祖母にはそれが障ったのかお腹を壊し、それが死の原因になったようだった。

 しかし、私たちは誰を責めることもできず、これも寿命だったと思うしかなかった。

 ところが、この事件には後日談があり、何十年もたってからだが、ある新聞で、「ヨーロッパで占領軍の放出物資の缶詰が原因で大勢、死者が出た」という記事を読んだ。

 当時、ヨーロッパでは食糧事情は日本以上に悪く、飢餓状態に陥る人が多く、そこへ問題のコンビーフが放出されると、飢えた人たちは貪るようにそれを食べ、体力が落ちていた人たちの腸はそれに対処できず癒着を起こしたようなのだ。

 祖母の場合、高齢で体も虚弱だったため、たとえわずかでも肉の脂肪分は強過ぎたのだろう。

 

「お世話になったね。私もお祖父ちゃんのところへ行くからね」

 葬儀がすんだ翌日、夢の中に祖母が現われ私に言った。口許の糸切り歯が金色に光っていたから、祖母に間違いなかった。

 生前、祖母は祖父ととっても仲がよかったらしく、戦後の荒れ果てた東京を見るより、このほうがよかったかもしれない、と私は思った。

 生前、祖母は「お前が十八になったら桃割れを結ってあげるからね」と、その日がくるのを楽しみにしてくれていたが、私はそれだけが残念だった。

 東京に帰ったら祖母にしてあげたいことが一杯あったが、今となっては、こうして持ち帰った祖母の遺骨を東京・小石川にあるD院に持って行き、一足先に眠っている祖父の傍らに安置してあげることが、唯一、私が祖母にしてあげられることのように思えた。

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