2 屋根の上の初恋
夢でみたオレンジ色のツナギの服を着た青年が、現実に目の前に現われたのは疎開先の学校で四年生に進学した春だった。
前年の八月、戦争が終わり、二学期に入ると授業は再開されたが、戦地に行っていた教師が一人、二人と戻ってきていたが、二科目、三科目も兼任する教師もいて授業のできる体制が整うまでには、まだ時間がかかりそうだった。
食糧事情も急には回復せず、疎開児童はじめ家が農家ではない生徒たち何人かは、昼食時間になると一人、二人と教室から出て行った。
その中には級長もいて、当初、散歩か、探検遊びにでも出掛けるのかと思っていると、実はそうではなく農家の子供たち以外はみんな薩摩芋や、配給米に麦や玉蜀黍を混ぜた代用食だったため、弁当まで持参する余裕がなかったことを後で知った。級長も両親が外地勤務だったため親戚に預けられており、弁当まで持たせてもらう余裕はなかったようだ。
だが、生徒たちは久々に再開される授業が待ち遠しく、弁当を持参できない生徒たちのことまで注意は向けられなかった。
ところが、年度が変わり新学期に入ると校内には俄然、緊迫した空気がみなぎるようになった。
理数科担当の教師も学力のある若い教師が着任するという噂が流れ、私は得意な学科だけに、どんな教師が赴任してくるのかソワソワし、授業が待ち遠しくて仕方なかった。
すると、新学期が始まったある日、始業時間ぎりぎりになって、それらしい教師が駆けつけてきた。背が高く、当時、国防色といわれたカーキ色の服を着ていた。
当番の生徒の号令で全員が起立し、初対面の挨拶を行なった。
「あれっ?」
ところが、その教師は私にとっては初対面ではなかった。数日前、教員住宅の屋根のスレート瓦を葺く作業のとき屋根の上で泥団子を手渡した、あの青年だった。
その時はオレンジ色のツナギの服を着ており、二度目の今日は服装は異なったが、あの日以来、私の胸中には、その時、着ていたオレンジ色のツナギのことがずっと消えずに残っていたからだ。
――それというのは、教師たちが戦地に出掛ける前に住んでいた教員住宅が空襲で焼失し、復員後は山の奥にある借家に住んでいたが通うのが大変で、そのため学校の敷地内に急造の教員住宅を建てることになったが、大工や、職人は焼け跡の復旧工事や、新築工事に追われて人手がなく、止むを得ず材料の運搬や、壁土作りなどは生徒に手伝わせ、教師たちが自らの手で家を建てる必要に迫られた。
壁土は、適した土を掘ってきて、それに細かく裁断した藁を混ぜて泥団子を作り、細く裂いた竹を縦横に組み合わせて作った骨組の上に、その泥団子を貼り付け、コテで平に延ばし、乾くと、その上に板を張った。
屋根は、木材を組んだ上に板を貼り、その上に壁に用いた物と同じ泥んこの玉を延ばし、スレートの瓦を葺いた。
ところが、いざ屋根の上での作業に取りかかり泥団子を屋根の上まで運ぶ作業になると、誰が梯子に登って泥団子を屋根の上まで運ぶかが問題になった。体重のある生徒は梯子が壊れるのを怖れて寄り付かず、高所恐怖症の生徒は屋根に登るのが怖く尻込みし、結局、私と、もう一人、痩せて運動神経のありそうなSという生徒が選ばれた。
みんなが手渡しで運んできた泥団子をSさんが梯子の途中で待っていて受け取り、それを屋根の上で待ち構えている私に手渡し、それを私が屋根の上で作業してる教師たちのところまで運んで行く。
ところが、休憩時間になり一休みしたとき、さっきまで屋根の上で一緒に作業をしていた教師の顔を見ると、一人は年配の農業の教師だったが、もう一人は、日頃、あまり見かけない青年だったので驚いた。この青年は、いったい何なのだろう、学校の先生なのか、或いは臨時の代用教員なのか、それとも、この作業の単なるお手伝いさんなのか?
その日、彼が着ていたオレンジ色のツナギのことを私が忘れなかったのは、生前、造船所の技術者だった父が庭仕事や、日曜大工をするとき同じような色のツナギをよく着ており、そんなときは父も寛いだ気分のときなので私もよく纏わりつき、それでオレンジのツナギには私も特別、愛着があったのかもしれないが、その日、理数科の時間に姿を見せたのは、まさしくあの日、屋根の上で一緒に作業をした青年に間違いなかった。
理数科の授業が、その新任のT教師によってテキパキ進められるようになり、私も好きな科目だけにいっそう張り切らざるを得なかった。
登校してもソワソワして落着かず、理数科の時間がくるのが待ち遠しくてならなかった。
T先生が黒板に数式や、図を書いて生徒に解答を求める――。私は答えたくてウズウズし、すばやく手を挙げる。すると、T先生は私の答に満足して大きく頷く。それは私にとって息苦しくなるほど幸せな時間だった。
ところが、そんな幸せな時間はいつまでも続かなかった。クラスの他の生徒たちも新任の若い教師に注目し、われ先にと手を挙げ指名されるのを待つようになったからだ。
しかし、それなのに私がみんなより先に手を挙げ答えてしまうので、他の生徒たちからブーイングが出た。
「T先生は贔屓してる」
私はいじめにも似た目に合い、泣き出しそうになったこともある。
それからというもの、私は答が頭に浮かんでもすぐ手を挙げるのを控えるようになったが、それでも理数科の時間がくるのが待ち遠しくて仕方がなかった。
ある時、こんなこともあった。
幾何の試験で私たち四年生と、五年生に共通の問題が出たことがあった。だが問題が難しく、答を解く糸口が掴めないまま時間がきてしまいそうで私は焦った。
(T先生から出された出題を、初めて解けずに提出しなければならない……)
すると、その時、問題と関係のないT先生のことが頭の中をよぎった。
(T先生の期待を裏切らないためにも、どうしてもこの問題を解かなければ……)
すると、どこからそんな力が湧いてきたのかヒントのようなものが頭を掠め、それで何とか問題を解くことができた。
「五年生でも誰一人、解けなかった幾何の問題を一級下の四年生で解いた生徒がいた」と教員室でも話題になり、それが自分であったことを後日、T先生から聞かされたとき死に物狂いになって格闘したときのことが蘇り、私は天にも昇る心地になった。
T先生の授業ほど楽しく、充実した時間はなく、そんな時間がいつまで続くか考えると不安になり眠れなくなったが、しかし、その時間をこのまま停めておくことはできなかった。そして、もし、その時間を停めることができなければ後はもう死ぬしかない、というようなことも考えるようになった。
化学の実験室にある薬品を盗んできて、こっそり飲めばうまくいくだろうか……そんなことも本気で考え、生れて初めて自分の力ではどうにもならない世界があることを知った。
私の体は風邪のウイルス菌にでも感染したように異状をきたし、見るもの、聞くものに変化が生じるようになった。これまで真っ青に見えた波の色が濃い緑色に変わり、人を飲み込むようなうねりになって押し寄せてきた……。