1 枕崎台風と、父の死
嵐の前兆とも思える生暖かい雨混じりの風が吹き始める天候のなか、私は母に頼まれ、ある所に向かって自転車を走らせていた。
まだ中学生で体重が三十キロ少ししかないのに、漕いでいるのは大人の、しかも男性用の自転車で、道路は舗装されていない凸凹道、しかも途中には長い坂道が何ヵ所もある。強風にあおられ、時々、よろめいたが、そのたびハンドルを握り絞め必死に自転車を漕いだ。
まだ、どこの家にも電話がない時代で、向かっている先は駅で三つ先の叔母(父の妹)の嫁ぎ先の医者の家だった。
三日前、父が急に熱を出し、空襲で一軒だけ焼け残った医者に往診を頼むと、風邪だと診断されたが、処方してくれた薬を飲んでも熱は下がらず容態は悪化するばかり……。それで、焼け跡の片付けで負った傷のことが気になっていた母は、十数キロ離れた町で開業している叔母の嫁ぎ先の先生(叔父)に往診を頼むしかないと判断したのだった。
しかし、叔母に会って一刻も早く用件を伝えなければと思う一方、私の頭の中には一日前、明け方にみた夢のことがずっと離れずに残っていた。
「お祖母ちゃん、明け方みる夢って正夢なの?」
「昔から、そう言われてるね」
「悪い夢なら、人に話してしまったほうがいいの? それとも黙っていたほうがいいの?」
「人に話してしまったほうがいいそうだよ。何か悪い夢でもみたのかい?」
「……………………」
しかし、「父が死んだ夢をみた」とは口に出せなかった。
「可笑しいこと言う子だね、この子は……」
祖母は私が尋ねたことについて、それ以上、取り合わなかった。
早く叔母に会って用件を告げ、先生を同行しトンボ返りで戻らなければ……ますます激しくなる風雨の中を私は、はやる気持ちでペダルを踏み、やっとの思いで叔母の家の庭先に飛び込んだ。
ところが、庭先から診療所の方に目をやると、こんな天候なのに待合室にも、廊下にも、患者さんが大勢、順番を待っていた。私は苛々しながら玄関に飛び込んだ。
只ならぬ玄関の気配を察し、慌てて姿を見せた叔母に、私は「すぐ、往診に来てもらえませんか」と、父の病状を訴えた。
髪を振り乱し、ビショ濡れになった私の形相に叔母はビックリした様子だったが、先生は診察を終えると昼食を取り、一休みしたあと予約の入ってる患者さんのところへ往診に出掛けなければならず、父のところに出向くのはそれからになる、と答えた。
「先生には用件は伝えるから、濡れた服を脱ぎ、少し横になって休みなさい」
叔母は優しくそう言って、バスタオルと、着替えを出してくれた。
しかし、私は一刻も早く叔父を連れて帰りたい一心で、横になって休む気などにはなれなかった。一分でも、一秒でも早く、と思い自転車を飛ばしてやって来たのに、それに身内だというのに単に患者の一人に過ぎないのか……と腹立たしくなった。
しかし、叔父が往診から帰るまで待つしかないので、叔母が出してくれた衣服に着替え、居間に横になった。すると風雨の中、必死で自転車を漕いでやってきた疲れが出たのか、知らぬ間に寝入ってしまったようだった。
しばらくたって目を覚ますと、「帰るといって聞かないだろうが、今夜はここに泊めてやりなさい」叔父はそう言い残し父のところへ出かけた、と叔母が伝えた。
翌朝早く目を覚ますと、風雨はまだ衰えていなかったが、家の中は妙に静まり返っていた。
姿を見せた叔母に父の様子を尋ねると、叔母は「お父さんはね……」と言ったきり、黙り込んでしまった。
そんな叔母の様子から、私は寝入ってしまった間に起きた父の異変についてすべてを了解した。
ただ、あれだけ泊らずに帰ると言ったのに……と昨夜、ここに泊ったことが悔やまれた。同時に、二日前、明け方みた夢のことが頭をよぎり、あの夢はやはり正夢だったのだ、世の中にはこんなことも実際に起り得るのだ、とあらためて思った。
叔母の家の居間の食卓には、もう朝食の用意がされていたが、気がつくと少し離れたところで叔父と、医科大に行っている従兄が、大きな部厚い本を広げ写真など見て話し込んでいた。
叔父は昨夜、遅く風雨の中を帰宅したはずなのに、食事も後回しにして父の死因になった背中の斑紋のことについて従兄と議論していた。
すぐ駆けつけてくれず、あれだけ恨んでいたのに、そんな必死の面持ちの叔父と従兄を見て腹立たしさも少し柔らいだ。
(しかし、こうしてはいられない。急いで帰らなければ……)
私は急いで朝食を食べ終えると、家の人たちに挨拶して玄関を出た。
「お通夜の時間がわかったら、知らせてね!」
奥の方から叔母の声が聞こえた。
あんなに元気に私と一緒に焼け跡の片付けに出かけていた父は、この世にもういない……そう思うと、張り詰めた気持ちでペダルを踏んだ昨日のような力はもう出なかった。
風雨はいっこうに弱まらず、自転車は思うように前に進まなかった。
学校の寮にいる兄にもう電報を打っただろうか、汽車の切符は手に入るだろうか……自転車のハンドルを必死で握りペダルを踏んでる私の脳裡を、さまざまな思いが駆け巡り、そして消えた。
家に帰れば私が大黒柱なのだ、葬儀のときも人の前では毅然としていなければならない、家に着くまでの今の時間だけが自分にとって、唯一、残された自由時間なのだ、今なら人目もないからどれだけ泣いても気づかれない、思いきり泣くなら今しかない……土砂降りの雨の中を涙が頬を伝わるにまかせ、私はひたすら自転車を漕ぎ続けた。
家に着いたのはもう昼過ぎで、父の納棺はすでに済んでいた。今夜がお通夜で、明日がお葬儀とのことだった。
母から聞いた話では、叔父が昨日、家に到着したのは夕方近くで、病状はさらに悪化し、背中には朝、見られなかった硬貨大の紅い斑紋が散らばっていたという。
診察を終えると、叔父は言葉少なに「明日、また来ます」と言い、鞄を片付け始めた。
仮住まいの家から五十メートルぐらい行くと、自動車や、荷車が行き交っている道路があり、その周辺には田圃が広がっていた。
母は道路のあるところまで見送りに出ると、歩きながら叔父は「風邪ではありません。残念だけど、もう助かりません」と言い難くそうに告げた。
母は、叔父と別れると小走りで家に戻ったが、しかし、父は見送りに出ていたほんのわずかな隙に息絶えていた。
母は、薄暗くなった道をまた必死に走り、叔父を連れ戻した。
妹も、祖母も、そのとき父が臥せていた隣りの部屋に居たが、二人とも父の異変には気付かなかったようだ。
お棺を見るのは初めてだったが、何故かこじんまりしたお棺だった。
町全体が空襲で全焼し、葬儀屋さんも営業していないので棺桶は探しても見つからず、そのため仮住まいをしている農家の家主さんが父の小学校の同級生とかで、近所回りに呼びかけ使えそうな木材や、板切れをかき集め、棺桶らしい物をみんなで作ったのだそうだ。
長い板がなく、短い板を繋ぎ合わせたため、出来上がった物は父の身長より短く、膝関節を曲げないと収まらず、死後、時間がたち硬直した遺体の膝を曲げると「ポキッ、ポキッ」と音を立てた、と家主の娘さんが話した。
土地の風習なのか、電話も浸透していない時代なのに父の死は何キロも離れた遠くにまで伝わっており、お通夜には悪天候にもかかわらず親戚だけでなく、知人が大勢、焼香に見えてくださった。そして、それらの人たちの中には噂がすでに流れていたのか、父の病状を誤診した医院のお嬢さんの姿もあった。
この地方の習慣で埋葬は土葬で行なわれるため町には火葬場がなく、父の遺体は遺骨にすることができず、生前、父が望んでいたように海が臨める墓地に埋葬されることになった。
東京との習慣の違いに、母も、祖母もうろたえたが、私だけは生前の父の望み通りになったような気がして内心、ホッとした。
「東京の墓地は嫌だね。どこもジメジメして陰気臭くて……。鹿児島には海の見える見晴らしのいい所に墓地があるんだ。お父さんの先祖たちは、松林の先にあるその墓地でみんな眠ってるんだ」
父が元気だった頃、知人の葬儀などから帰宅すると、喪服を脱ぎながらよくそんなことを呟いていたのを覚えている。
そして、そのあと父はこう付け加えた。
「お父さんが死んだら、お棺に愛用の尺八一本と、書の本を一冊入れてほしい」
「どの尺八がいいの?」
「いちばん悪いのでいいよ。師匠からもらった上等の物や、お父さんが作った物は記念に残しておいたほうがいいから……」
父が元気だった頃、何気なく交わした会話だったが、こんなに早く現実の出来事になろうとは思いもしなかった。
翌日、雨が降ったり止んだりするなかを大八車に乗せられた父のお棺は墓地へと向かった。
その日は雨で見通しが効かなかったが、父は生前、話していたように松林の先にある海の見える墓地で、これから毎日、美しい景色を前に眠れるのだ、と思った。