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ぼくはてっきりパパとママの一人息子なんだって勝手に思っていたから、「ただいまー」と言って、ぼくよりうんと背の高い、日に焼けた、黒いキャップをかぶった男のひとが手慣れたようすで家に入ってきたときは仰天した。
その男のひとはぼくを見つけるやいなや、どすどすと音をたててぼくに駆けより、ぐしゃっとおおきくぼくの頭をなでてから、がっしりとぼくを抱きしめた。汗と、太陽の匂いと、もわっとした体温がぼくをつつんだ。
「兄ちゃん!」
ぼくは言った。それはぼくの頭や心から発せられたものではなく、反応、に近かった。兄ちゃん、と咄嗟に声が出た。喉が、「兄ちゃん」を目撃したとたん自動的に起動した。
ぼくはぼくの「兄ちゃん!」にたまげて、ぼくをいささか乱暴に抱きしめている男のひとを見つめた。兄ちゃんだって?
「おまえ、ほんとうにユウイチか?」
ぱっと顔を離して、「兄ちゃん」は言った。その目は、ママがぼくを見つめるのとは違う、純粋な驚きと感嘆に満ちていた。その奥に少しだけ「恐れ」のようなものがあったような気がする。
「うん。ずいぶん眠っていたみたいだけど」
パパやママに聞かされていたことを、そのまま言った。そう、ぼくは眠っていたのだ。小熊が冬眠するみたいに。
「おれのこと、おぼえてるか?」
かあさんが、記憶が曖昧なところがあるって言ってたけど、と兄ちゃんは言った。兄ちゃんの手はごつごつしていて、おおきかった。
「あんまり、おぼえていないかもしれない。…でも、今勝手に『兄ちゃん』って言ったから、ぼくの体はおぼえてるみたい」
このひとは、ぼくのお兄ちゃんなんだ、と、ぼくは驚きつづけながらもそうおそるおそる言った。と、いうことは、ぼくは弟ということになる。
「そうか」
ぼくをまじまじと見ながら、兄ちゃんは言った。どこかほっとしたような、少し残念そうな、複雑な顔で。
「ごめん」
ぼくは言った。
「いや、そんなことはどっちだっていいんだ。そんなのは全然、たいしたことじゃない」
兄ちゃんは言った。
パパやママのことはおぼえていた。というより、「忘れていなかった」。パパもママも見てすぐに「パパ」と「ママ」だとわかった。そこに時差はなかった。
けれど「兄ちゃん」には時差があった。ぼくが兄ちゃんとのそれまでの記憶をとりもどすのには数日かかった。そしてそれはおそらく断片的なものであって、すべてではない。ところどころが虫に食われていて、黒くつぶれている。そんな気がした。
底が激しく汚れたスポーツバッグを肩にぶらさげていた兄ちゃんは、そのときママに「思ったより元気そうじゃないか」と、ぼくについて言った。そうね、とママは頷き、先にお風呂に入っちゃいなさいよ、と言った。ママはずしりとした兄ちゃんのバッグを受けとった。
兄ちゃんはふりかえって、言った。
「ユウイチ、あとでな」
その目を今もおぼえている。
「うん。あとで」
と、ぼくは言った。
☆
ぼくは考える。記憶について。
思い出や、過去というものについて。ぼくのちっぽけな脳みそでは、適切な言葉が見あたらない。
ぼくは自分がとても不完全で、きちんと機能していない役立たずの人間に思えた。なにか、たとえば目の前にならぶアイスクリームののった器を見て、なにかを思いだそうとする。いや、なにかが思いだされようとしている感じがする。
けれど実際にはなにも思いだすことはない。アイスクリームはアイスクリームらしく、おいしそうにそこにある。
思いだされるべきものなんてなにもないのかもしれない。夜、眠りにつく前の暗い天井や、風に揺れる公園の木々を見てもそんなふうに感じてしまうのだから、きっと、それは思いすごしなのだ。ぼくは、そんなふうに思おうとする。でも、もうひとりのぼくはじっと待ちつづけている。ぼくがなにかを思いだすのを。
アイスクリームが溶けはじめる。ぼくは慌ててスプーンを手にとる。ぼくは、おいしいうちにアイスクリームを食べてしまいたいから。
そんなことがなんどもあって、とくに問題はないのだけれど、ただ、ぼくのハートが釈然としない。大切なものを見すごしているような気がして、ふわふわしている。
そんなぼくを見かねて、ママはぼくに起きたという「事故」について、話してくれた。そう、ぼくはその「事故」についての記憶がいっさいないのだ。きれいさっぱり、一ミリも。
雨の降る朝だったわ、とママは言う。ママは物語を語るみたいに淡々とそう言った。リビングルームのママのお気に入りの椅子にすわって、ぼくではなく、よく晴れた窓の外を見ながら。
「マサトとユウイチは、いっしょにサイクリングするのが好きだったの。その日も、雨だからやめなさいって言ってるのに聞かなくて、ふたりで家を出ていってしまった」
ママは憂鬱そうに、いれたての紅茶をひとくち飲んで、言った。マサト、とは兄ちゃんのことだ。
「なにもおぼえてないのね?」
念を押すように、ママは言った。ママは、ぼくの目が覚めてからずっと、ことあるごとになんどもそう聞いてくる。ユウイチ、あなた、ほんとうになにもおぼえていないのね? と。
「ほんとうになにもおぼえてないよ」
正直に、ぼくはこたえる。ぼくがその「事故」にあったのは半年前だそうだ。その時期の前後の記憶が、ぼくからはすっぽりと抜けている。
「サイクリングってことは、自転車だよね?」
水を飲みながら、ぼくは言った。ぼくは水をなみなみと飲む。するりするりといくらでも飲める。
「ええ。パパがボーナスでふんぱつして買ってくれたのよ。赤いのと、青いの。それもおぼえてない?」
ママは窓から目をそらして、言った。ママの目は透きとおっていて、澄んでいる。大人なのにそんな目をしているひとはなかなかいないんだよ、とパパは自慢げに言う。パパがママをえらんだ最大の理由だ。なんだって目を見ればわかる。目は、体の中でもっとも嘘をつかない器官だそうだ。
「ごめん、おぼえてないや」
赤いのと、青いの。パパが買ってくれた自転車。ぼくの自転車は赤いのだっただろうか。それとも、青いの?
「いいのよ、ユウイチが謝ることではないわ」
くりかえしてきた言葉を、ママはもう一度言う。心を込めて。ぼくはそのたびにそわそわする。
兄ちゃんは高校生で、ふだんは寮に入っている(だから、ぼくが目覚めたとき家にいなかったわけだ)。その寮は家からけっこう遠いところにあって、兄ちゃんはめったに帰ってこない。
その「事故」があった日は、おじいちゃんの三回忌でたまたま兄ちゃんは帰省していた。興奮して、嬉しかったぼくは億劫がる兄ちゃんに無理を言ってサイクリングをねだった(らしい)。
「裏山のふもとを一周する、大人でも躊躇するコース」だったとママは言う。そのコースをぼくは気に入っていた。見晴らしが良くて、山の神さまがいる気がする、とよく言っていたそうだ。
「でも、神さまは助けてくれなかったわ」
と、そこそこ真剣な顔でママは言った。ユウイチはとてもいい子で、山が大好きだったのに。たまに、山に落ちていたゴミを拾って帰ってきたりしたのよ?
と。
誇らしげに、責めるようにママは言う。ぼくは、ふうん、と言って、話しのつづきを待った。
ママはちいさく息をすって、言った。
「シンプルな事故だったの。スピードを出しすぎたユウイチが、雨ですべりやすくなっていた道路で転倒して、頭を打った。おまけにガードレールを飛び越えて、そのまま崖から転落をした」
そういっきに、ママは言った。抑揚のない声で、淡々と。とてもシンプルな事故だったのよ、と、言い聞かせるように。ただ、そのあとのあなたが、なかなか目覚めなかっただけで。
「崖から転げ落ちたの? ぼくが?」
信じられなくて、ぼくは声を荒げた。そんな凄技を、ぼくがやってのけたなんてまるで現実味がなかった。そんなの映画みたいじゃないか。そりゃあおおきな「事故」だ。
「ママが止めれば良かったのよ。あんな雨の中、子どもふたりをサイクリングに行かせるなんて、正気の沙汰ではなかったわ。ほんとうに、どうかしていた。首輪をつけてでも、あのまま家に置いておくべきだった」
目を光らせて、ママは言った。それは今にも、なにかを破壊してしまいそうな恐い目だった。
「それで、ぼくはどうしたの?」