【第3回】第三章 | マイナビブックス

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そして、ここは世界の果て

【第3回】第三章

2016.05.23 | 桜井郁子

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     3

 

 

 パパとママが結婚したとき、ママのお腹にはすでに兄ちゃんがいたそうだ。ママの妊娠がわかったとき、パパは喜びのあまり家にあったビールやワインをかたっぱしからあけてぐでんぐでんに酔っぱらって、ママにこっぴどく叱られたらしい。

 「あんまり嬉しかったもんだから、とても正気ではいられなかったんだよ。それまでのパパの、幸せの限界をはるかに超えていたんだ。酔っても酔っても、まだ嬉しくてどうにかなりそうだったよ」

 と、パパは言う。

 ぼくはなんど聞いても、この話が好きだ。嬉しくて嬉しくて、喜びを爆発させながらお酒を飲むパパと、眉をひそめながら、それでもにこにこ笑っているママ。ママのお腹には兄ちゃんがいて、ぼくより一足先にこの世界に出てこようとしていて、今か今かとうずうずしている。そんな光景が目に浮かぶ。

 「そのとき、パパは焼酎を飲みながら『スローバラード』をでっかい声で歌ってた。悪い予感のかけらもないさ、ってね」

 と、兄ちゃんは涼しい顔で言う。そういうものなのかな、と思っていたけれど、よく考えたらへんな話だ。お腹の中にいるときって、そんなふうに外の世界のことがわかるものだろうか? 

 兄ちゃんは、

 「それしかおぼえてないけどな」

 と言う。パパは、

 「歌っていたかもしれないし、歌っていなかったかもしれない」

 と曖昧だ。そりゃそうだ。だってぐでんぐでんの酔っぱらいだったんだから。

 「歌っていたわ」

 パパ、すっごい音痴なの、と笑いながらママは言う。マサトはきっと、どんな家に生まれてくるのかを知りたかったのね、だから天使が見せてくれたんだわ。

 仕事帰りに酔っぱらって帰ってきたパパが、上機嫌でその『スローバラード』を歌っているのを耳にしたことがある。確かに、パパはすっごく音痴だった。

 派手な化粧をした男のひとがその歌を歌っているのをテレビで見たとき、あまりに素敵な曲でびっくりした。パパのそれとはべつものだった。

 「だろう? おれもびっくりしたよ」

 と、にやにやしながら兄ちゃんは言った。

 「なんだあ、パパ。音痴にもほどがあるや」

 ぼくは言った。

 「そうかあ? そんなに下手かなあ」

 不服というよりは不思議そうに、パパは言う。そんなパパを、ぼくはとても気に入っている。気に入っている、なんて言うと生意気だけれど、おおきくて、森にすむクマみたいなパパをぼくは心から気に入っている。

 ママがパパに、「ユウイチはもう、こうしてここにいて、ただわたしの目の前にいてくれるだけでいいのよ」とある日言ったとき、パパはぼくとママを交互に見て、「そういうわけにはいかないよ。ユウイチはユウイチで、一人のりっぱな魂なんだから」と言った。

 パパはママにはむかったりしない。どんなときも優しくて、ママの味方だ。ママを尊重していて、愛している。

 そんなパパがママの手をとって、ぎゅっと握りしめながら言った。

 「ママ、ぼくらはユウイチの親だけれど、それ以上にはけっしてなれないんだよ」

 と。

 どういう意味なのかよくわからなかったけれど、それを聞いたママは火がついたように泣きはじめた。ママはぼくが事故にあったことで、精神的に不安定になることがあるのだとパパは言った。

 「そうなの?」

 「ああ。でも大丈夫だ。ママは強いひとだから。だってユウイチのママだからね」

 パパは言う。

 「そっか」

 「そうさ」

 パパはうんうん頷く。おでこに汗をびっしょりかいて。

 ぼくはママに近づいて、言った。

 「ママ、ぼくはこうしてここにいるし、離れたりしないよ? そりゃあこれから大人になって、いろんなところへ行ったりするかもしれないけれど、ずっとママの子どもだよ?」

 と。

 パパに手を握られたまま、泣いているママは子どものようにふるえていた。ぼくをじっと見つめる。

 しゃんと背を伸ばして、ぼくはママを心配させないように、言う。

 「大丈夫。だってママの子どもだからね」

 にかっと笑う。歯を見せて笑うと、ぼくの顔はひょうきんになるらしく、ママは笑わずにはいられないから。

 「ありがとう、ユウイチ」

 ママはほんの少しだけ笑って、パパのふっくらした手をふりはらってぼくを抱きしめた。ママに抱きしめられると、ぼくは自分がどんどん透明になっていくように感じる。

 「ママ、どうかしてたわ」

 ママは言う。

 「そんなことないよ」

 とぼくは言った。

 

 

     ☆

 

 

 それでも一日の大半は寝てすごした。

 いくら寝ても眠くて、ずるずるとひきずられるようにしてベッドに入り、時間の感覚がなくなるくらい眠った。

 ときおり頭がきりきりと痛んで、そのあいだはまったくなにも考えられなかった。手足が思うように動かず、体が鉛のように重くなることもあった。事故のあと、おおきな手術をしたらしいから、その後遺症なのだろう。とにかく、ぼくの体なのにぼくの体ではないみたいだった。

 寝ているあいだはいっぱい夢を見た。

 生々しくて、鮮やかな夢がかわるがわるぼくのもとをおとずれては去っていった。こんこん、とドアが叩かれ、すうっと音もなく次の場面に変わる。夢には脈絡がなくて、かたくるしさもなかった。それは海のようだった。

 ぼくは夢の中ではなんでも知っていて、とても元気だったけれど、ふと目が覚めて自分の部屋に気づくと、靄がかかったようにいろんなことがあやふやになった。

 「兄ちゃん、ぼくはまた昔みたいに戻れるのかな」

 なんの気なしにそう言った。兄ちゃんは夏休みでもないのに、しばらく学校を休んで家にいると言う。目覚めたぼくが、落ち着くまでそばにいてくれるらしい。

 「そうだなあ」

 わりと長い沈黙があって、めずらしく兄ちゃんは考え込んでいた。兄ちゃんはいつも決断がはやくて、芯がぶれない。好き嫌いがとてもはっきりしている。

 「もとに戻る、ってのは難しいと思う」

 とても真摯に、兄ちゃんはそう言った。

 ぼくは動揺して、

 「そうなの?」

 と言った。

 「そう思う」

 と兄ちゃんは言った。

 「どうしてさ」

 不安にかられて、ぼくは言った。兄ちゃんをまっすぐ見ることができない。兄ちゃんはぼくより数倍頭がいいのだ。サッカー部に入っていて、県大会にだって出た。

 「いいか、ユウイチ。ものごとってのは常に前へ前へと進んでいくんだ。時間は過去には戻らないだろう? それはわかるな?」

 まっくろに日焼けした肌と、ひきしまった体が兄ちゃんをより凛々しく見せている。ぼくは思う。こんな格好いいひとの弟だなんて、すごい。ぼくは身内びいきなのだ。

 「わかるよ」

 ぼくは言った。

 「時間は前にしか進まないし、ぼくらは時間から逃れることはできない」

 「そうだ」

 兄ちゃんは頷いた。

 「かあさんが話したと思うけど、おまえは事故にあって、長いあいだ意識がなかった。…事故のことについては、兄ちゃんに責任がある。おれが連れださなければ、こんなことにはならなかったんだからな」

 厳しい口調で、兄ちゃんは言った。

 「ちがうよ。そんなことはどうだっていいんだ。ぼくがせがんだってママは言ってたよ。おあいこさ」

 おぼえていないことについて話すのは、ひどく奇妙だった。事故はぼくにとっておおきなことのはずなのに、いまいち実感がない。それはゼリーみたいに柔らかかった。

 「いや、おれは一生、おれのことを許さない。おれは、おまえを守ってやれなかったからな。だから決めたんだ。この十字架は死ぬまで背負うって」

 じっと前を見つめたまま、兄ちゃんは言った。

 「なんだよそれ」

 ずいぶん大袈裟だな、とぼくは言った。

 「大袈裟じゃない」

 ぐっと唇をかみしめて、兄ちゃんは言った。ぼくはいやな気分になった。十字架だって? そんなものを背負われたら、ぼくの肩も凝ってしまいそうだ。

 「いい迷惑だよ。そうしたらいつまでたっても『事故』は終わらないじゃないか。ぼくの体ももとには戻らないし、ママも不安定なまんまだよ」

 ぼくは言った。ぼくの体は、そんなに悪いのだろうか、と不安になった。兄ちゃんにそんなふうに言わせてしまうくらい。

 「ぼくはきちんと区切りをつけて、元気になりたいんだ。そのために協力してくれなくちゃ困るよ」

 悲しくなって、ぼくは言った。

 「ちがう?」

 「いや」

 その通りだ、と兄ちゃんは深い瞳で頷いた。ぼくはほっとした。だって、ぼくらには未来がある。その未来以外に背負うものなんて、ひとつもなくていい。

 「なあ、ユウイチ」

 体ごとぼくに向きなおって、兄ちゃんはあらたまった声で言った。

 「なにさ」

 ぼくは言った。

 「おれのこと、許してくれるか?」

 兄ちゃんはまっすぐにぼくを見て、言った。ぼくはそんなに真剣な兄ちゃんの顔を見たことはなかった。県大会の決勝でグラウンドに駆けだしていくときも、ガールフレンドをはじめて家に連れてきたときも、ものすごく真剣だったけれどここまでではなかったように思う。つまり、兄ちゃんはおそろしく真剣だった。

 「もちろんだよ」

 ぼくはおおきく頷いた。世界じゅうがぼくに気づくくらいおおきく、おおきく。

 「ほんとうか?」

 兄ちゃんがじっとぼくを見つめる。ぼくの、ずっとずっと奥のぼくに懇願するみたいに。

 「うん」

 約束する、とぼくは強く言った。約束。ぼくはこの言葉も、行為もとても好きだ。なんだか明るい未来にそっと置く宝石のような気がする。ママやパパや大人たちは、約束なんて窮屈な感じがして好きじゃない、と言うけれど。

 「そうか」

 兄ちゃんは言った。その肩の力が、すうっと抜けていくのがぼくにも伝わった。

 「そうさ」

 ぼくは言った。

 「だって、なにも悪いことしてないじゃないか。ぼくが転んで、勝手にごろごろ崖から落っこちたのさ」

 冗談めかして言った。兄ちゃんがあまりにもシリアスだったから、バランスが悪かった。

 「ちょっと派手だったかな」

 と言うと、

 「だいぶな」

 と兄ちゃんは笑った。

 長い長い沈黙のあと、兄ちゃんはありがとう、と言った。なぜだろう? その声がいつまでたってもぼくの耳の奥で響いていた。

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