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そして、ここは世界の果て

【第1回】第一章

2016.10.13 | 桜井郁子

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     1

 

 

 目が覚めると、今にも泣きだしそうなママの顔があった。ぼくはびっくりして、飛び起きようとしたけれどうまく体が動かなかった。ゆっくりと瞬きをする。ママは瞳を見ひらいてぼくを見つめていた。その頬からはあれよあれよという間に大粒の涙がぽたぽたとこぼれ落ちた。あ、ママ、泣いてるよ、と言いかけて、ぼくは口をつぐんだ。

 窓の外にはまっさおな空があった。太陽がまぶしく輝いている。ぼくは目をほそめて、泣きじゃくるママの顔を見つめていた。ママ、なんて顔してるんだろう、まったく子どもみたいじゃないか、って。

 まるでたった今、体にはじめて入った不慣れな宇宙人みたいに、ぼくは体の自由がきかなかった。頭と心と、筋肉の動きがてんでばらばらで、なんだか自分が壊れたロボットみたいだなと感じた。なかなかおもしろい感覚ではあったけれど、あちこちがじんじんと痺れていた。

 ママはそのふくよかな腕をまっすぐにぼくに伸ばして、ぎゅうっとぼくを抱きしめた。

ママの匂いがする。ぼくも抱きしめかえそうとしたけれど、できなかった。シーツに張りついたままの腕はただの棒切れみたいで、ぼくのものではないみたいだった。

 ごめんね、ママ。

 言うと、

 いいのよ、

 とママは笑った。ぼくの大好きな、花のような笑顔で。

 

 

 その日、街には春一番が吹いたのだと、あとになってママは教えてくれた。

 びゅうびゅうと激しい風が吹き荒れ、森や畑や商店街をふるわせた。ママの心の中のようだったわ、とママは言った。ママは、ぼくが目を覚ましたことがよっぽど嬉しかったらしい。春一番と初雪と台風がいっぺんに来たみたいだった、と真剣なようすで言うから、思わずつられて頷いた。それって嬉しいときの表現なのかなあ、と思ったけれど、ママはいつになく真面目だったし、その真面目さを茶化したくなかった。

 とにかくママは嬉しかったのだ。ずうっと眠りつづけていたぼくにようやく意識が戻って、それはもう「ユウイチがもう一度この世に生まれてきてくれた気がした」っていうくらいに。

 それって、すごい。なんだか感動して胸が熱くなった。ぼくは二度も生まれたのだ。この美しい世界に。

 

 

     ☆

 

 

 「夜が永遠に明けないみたいだった」と、眠りつづけるぼくを見てママは思ったそうだ。なんどもなんども、しろいレースがついたハンカチで涙をぬぐいながらママは言った。

 「ママ、どうしていいかわからなかったの。だから、神さまにたくさんお祈りしたわ。あんなになにかを真剣にお願いしたのってはじめてよ。祈りに体がのっとられるくらいに」

 ママが、ぼくが目を覚ましたという現実を受け入れるのには時間がかかった。

ベッドの上でぼうっと横たわるぼくから一瞬でも目を離したくないみたいで(目を離したら、ぼくが消えてしまうとママは信じていた)、ねえユウイチ? これはママの代わりよ? ママ、ここにいるからね、とおかしなことを言って、ウサギのぬいぐるみをベッドのサイドテーブルにちょこんと置いて「バトンタッチ」とウサギに告げ、ようやくぼくのそばを離れることができるのだった。

 と言っても、トイレに行ったり宅急便をとりにいったり、ママの行動範囲はしばらくのあいだとても限られていたけれど。

 「大丈夫だよ、どこにも行きやしないよ」

 と、そのたびにぼくは言った。だいいち、体がろくに動かないっていうのに、そんな力はない。

 「ちがうの。そういう次元じゃないのよ」

 きっぱりとママは言った。おおきな瞳。ふっくらした頬に柔らかい影を落とす長い睫毛。

 女の子みたいね、と言われつづけてきたぼくはママのその遺伝子をそっくり継いでいる。

 「やっとママの祈りが届いたんだもの。今、目の前にこうしてユウイチがいることは贈りものなのよ? きちんと見守っていなくては罰があたるし、申し訳が立たないわ」

 ママはひとり言のようにそう言って、ぼくの頬をなでた。ママはぼくの頬をなでる。祈りの仕草みたいに。

 

 

 ゆっくりとぼくの部屋を見わたす。ふたつに重ねられた枕をヘッドボードに立てかけて背もたれにし、ぼくはベッドにすわったまま不思議な気持ちでぼくの部屋を眺めた。

 明るめの茶色の木製の本棚に、図鑑や絵本、マンガ雑誌がならんでいる。背表紙がずいぶん日に焼けていて、埃をかぶっている。一番上の棚の空いたスペースには小鳥のオブジェがついたブックエンドがあって、端っこの本を支えている。

 ああ、そうだった。窓にかかるまっしろなカーテンは、ママが嬉しそうにとりつけたものだ。おおきなホームセンターで何十種類もの色とりどりのカーテンがぶらさがっていて、これだわ、と言って、ママはそのまっしろのカーテンを指差したのだった。

 いたってふつうのカーテンに、ぼくには見えた。少しごわっとしていて張りのある、麻のまじった生地だった。

 夜明け前みたいな群青色のカーテンがぼくは気になっていたけれど、それじゃあ部屋が暗くなるわ、というママの意見にすなおに従った。レディファーストはパパのお得意のわざだ。パパはたいていの選択をママに任せた。ママは魔女だから、ママに任せておけば間違いはないよ、と言って。

 そうやってなんでもママのせいにして、とママは笑う。でもママは、パパのそういうところを気に入っている。パパは海のようにおおらかで、めったなことでは波立たない。その海でママは好きなように泳ぐ。どこまでも深くもぐったり、ぷかぷかと浮かんだりして。

 きっとママが片づけてくれたんだろう、整理整頓された机はぴかぴかに磨きぬかれていて、電気スタンドの角度も完ぺきだった。ごみ箱は空っぽで、床に敷かれた紺色のラグは静まりかえっていた。

 いったいどれくらいのあいだ、ぼくは眠っていたのだろう? 記憶をたどろうとすると、頭の中がまっくらになる。すとん。と、照明を落とされた部屋に放り込まれたみたいになにがなんだかよくわからなくなる。

 軽い記憶喪失だと思うわ、とママは言った。しかたないわよ、だってあんなにおおきな事故だったんだから、と。

 いいのよ、気にしないで。ユウイチはただ、目の前のことだけを見つめていればいいの。

 そう笑うママはたてつづけにぼくの好物ばかりを夕飯に作ってくれた。

 正直、食欲はそんなになかった。目覚めてすぐのころはひどく喉が渇いていて、水ばかり飲んでいた。オレンジジュースでもウーロン茶でもなくて、水でなくちゃだめだった。よく冷えた柔らかな水は、凝りかたまったぼくの体をほぐしてくれた。

 「ええと、お餅入りの餃子でしょう、蓮根のハンバーグ、たぬきうどん、…ポテトサラダと、からあげ。そうそう、レモンクリームののったゼリーもね」

 ママは、幸せそうにぼくの好きなメニューをメモ紙に書きとめて、読みあげた。ぼくの目が覚めたら、ぼくの好物を順番に作って食べさせてあげようと思っていたそうだ。

 「ぼくは、そんなのが好物だったの?」

 ぼくではない、べつの誰かのことを聞かされている気分だった。べつの星に住む、ぼくによく似た、ぼくではない誰か。

 「そうよ。大丈夫、食べればすぐに思いだすわよ。頭より、体のほうがずっと賢いんだから」

 そう言ったママの手料理を、ぼくはしばらく食べつづけた。ぼくがもっとも好きだったという「蓮根のハンバーグ」はとくになんども食べた。

 ぴかぴかのお皿に、フライパンで甘く煮詰めたソースとケチャップをからめただけのハンバーグがどん、とのっている。ママは強火で表面をかりっと焼いて、それはぼくがその焼きかたを好んだからだと言う。

半熟の目玉焼きやチーズ、ごく稀に大根おろし(その場合はもちろんソースもケチャップもかかっていない)が熱々のハンバーグの上にのっている。

 光る、つやつやのフォークで切ると、それだけでもう唾が出てくる。目がまずそのごちそうをまっさきに食べる。ぼくはせっかちだから、我慢できずにすぐさま口でもぱくぱく食べる。しゃきしゃきした蓮根の歯ごたえがして、お肉の味がたっぷりして、くらくらするくらいおいしい。

 「おいしい!」

 とさけぶと、そうでしょう、とママは笑う。ママはぼくの食べるようすをじっと見つめている。ぼくの一部始終──一挙手一投足と言うのよ、とママは教えてくれたけれど──を、まっすぐに。

 それはどうしたって一部始終、って感じだ。そのほうがしっくりくる。ママは、ぼくという存在の一から十までを、なにひとつ見逃したり見落としたりしないように細心の注意をはらっていた。ママの世界における「ぼく」は、なんだか果てしなく大切なもののように思えた。

 「おいしい?」

 「おいしいよ。すごく」

 ぼくはこたえる。

 「そう」

 それは良かったわ、とママは言う。ママはほとんど自分のお皿に手をつけていない。ぼくが食べおえるのを見届けてから、はっと思いだしたようにフォークを手にとる。だから、ママのハンバーグはいつも冷めてしまう。ハンバーグは、熱々のほうがぜったいにおいしいのに。

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