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化粧咲き

【第3回】3

2016.09.08 | 篠原嗣典

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 高校生だったころは、携帯電話なんて夢のまた夢の発明品だったが、今や一人で複数の携帯電話を所有していても珍しくはなくない時代になった。タカツネは替えたばかりのスマートフォンでメールの返信を打ちながら、時代の流れの速さを考えていた。

 普通のキーボードならあっという間に打てる文章を数分かけて打つことは、愛を量るわかりやすい基準になるのかもしれないが、ミキに打つメールにそんな下心を感じてはいなかった。

 『了解! じゃあ、七時にテレビ一杯があった場所で待っている。楽しい時間になることを祈って』

 最初に留守電を残してから、もう一月が過ぎていた。電話で話をすると長くなるので、用件はできるだけメールにしようと言い出したのはミキだった。ドライなミキの言動は昔のままで、慣れていたので了解した。メールのやり取りの数は十を超えていた。

 タカツネは、ダラダラと予定を引き延ばすのが許せない性分なので、のんびりとしていたわけではなかった。ミキと話し合って誘おうと決めた四人の同窓生に連絡をして、準備を進めてきたのだ。

 時間がかかったのは友人たちのせいだ。

 まずは、候補日が決まらなかった。決めてくれ、という割には、候補日を出せば全員が揃える日がなく、何度も候補日を変更した。

 確かに四十代後半の社会人は忙しいかもしれないが、たった六人の予定の調整にこんなに苦労するとは想像もしていなかった。

 いい加減にしろよ、と怒りそうになって、タカツネは気がついたのだ。積極的に会いたいわけではないから彼らのモチベーションが上がらないのだ。

 元々付き合っていた二人とその仲間四人というのは、確かに微妙だった。タカツネは、自分が四人の仲間サイドだったらと考えて、ムキになっていた自分が滑稽に思えた。

 二人だけで会えば良いのだ。

 ミキにも、正直に話した。

 「それが良いよ」

 ミキの即答にホッとした。『それで』ではなく、『それが』と言ってくれたことが嬉しかった。

 

 同窓会で会ったときに、ミキは自分のことを元カノと言った。

 タカツネは驚いた。確かに高校一年の約半年間、ミキとは恋人のような関係だったが、そんなに単純なものではなかったからだ。

 初めの二カ月は、普通の恋人だったかもしれないが、ミキは幼なじみの男子に告白されて、結果的に二人の男と同時に付き合うことになったのだ。

 タカツネは当時、愛しているとか、付き合ってくれとか、言葉にすることに抵抗があった。恥ずかしいとかではなく、言葉にしなくとも、行動でわかってもらえると頑なに信じていたからだ。

 ミキは聡明で大人な面をたくさん持った女の子だったが、大事なことを言葉にしないタカツネに、時折、不満をぶつけることがあった。それは恋人のじゃれ合いのようなものだと思っていた。

 いわゆる二股状態になった直後から、ミキは友人たちの前で、タカツネは恋人ではなく、本当に付き合っている人は他の学校にいると言うようになった。

 タカツネは、それもミキの作戦だと疑わなかった。どうにか、言葉にさせようとするミキを可愛いと思った。疑いようもなかったのだ。学校の行き帰りを含めて、ほとんどの時間を恋人がするような過ごし方をしていたのだ。

 二股状態になっているとわかったのは、夏休みのデート中だった。

 その日、ミキは全てを告白しようと決意していた。だから、ミキはいつもより元気がなく、口数も少なく、重いムードで時間が過ぎていた。

 振り返ってみれば、タカツネは、少し前から異変に気がついていた。急に約束していたデートがなくなったり、それまでならありえないようなワザと嫌われるような意味不明な言動も何度かあった。

 まるで恋愛の神様の啓示のように全てが結びつくことで真相を知る瞬間は、タカツネに訪れた。

 幼なじみから告白された話も聞いていたし、周囲から最近おかしくないかとも警告されていた。

 幼なじみを好きになってしまったのなら、それはしかたがないことだと、素直に思った。タカツネはミキを笑わせようとしていたのに、自分が苦しみの元凶になっていたことがショックだった。

 『大好きだから、全てを知ろうとして、全てを知っているつもりだったのに、なんて自分勝手な思い込みをしていたのだろうか』

 タカツネは、ミキに言った。

 「大好きだけど、お別れだ」

ミキはうつむいたまま動かなかった。

 U公園の池ではたくさんのボートが漂っているように見えた。二人が座っている池の周囲に並んでいるベンチの一つだけが、周囲の溶けそうな暑さとは無縁に、凍るような静寂に支配されていた。

 「やだ」

 ミキは首を振りながら言った。

 「一緒にいる時は、タカが一番好きだもん」

 今のタカツネなら、それでも別れて友人に戻ることが最高の選択肢だとわかるが、十六歳になったばかりの高校生には無理な話だった。

 明日のことを考えずに、一緒にいる時だけは恋人で、必ずこっちに振り向かせてみせると約束をしたのだ。

 その瞬間から、ミキの苦しみは、何倍にもなってタカツネの苦しみにもなった。

 全てを知った上でも、ミキを恨む気持ちは一片もなかった。ただ、ミキを楽しくさせるために自分が存在することに満足だった。

 優しくありたい。それはタカツネの愛の証だった。

 ただ一点だけ、言葉にしなかったことは後悔した。言葉より行動で、というポリシーは捨てられなかったので、強いて人前で冗談のように軽々しく愛を扱うようにした。

 君を愛している、と目の当たりに言われれば、多くの女子高生は受け流すことができずに戸惑う。誰もが大切にしている秘密の呪文をどこでも無駄に使う狂気は、無理をしている自分の裏返しなのだとタカツネはわかっていたが、やめることができなかった。

 その年の大晦日は特別な日になる予定だった。

 どんなわがままも聞き、全てを受け入れてミキを愛し続けるご褒美として、たった一つだけタカツネが望んだ約束だったのだ。

 大晦日は都内の電車が一晩中動いている。仲間とそれを利用しながらオールナイトのイベントをしようと考えていた。

 ところが、前日になって、ミキは参加しないことになった。本命の彼氏に、どうしてもデートしたいと言われて断れないのだと、ミキではなく、仲間の一人から聞いた。

 タカツネの中で、何かが壊れる音がした。

 年が明けて、タカツネは同じクラスにいるのにミキに年賀の挨拶もしなかった。突き放す権利はあると思った。ミキも何も言わなかった。

 二人の複雑な関係は、そうして終わって、友人には戻れなかった。

 

 『わかった。テレビ一杯、懐かしいね。ちょっと遅れるかもしれないけど、楽しみにしているね』

 ミキからの返信メールは、どうやって打ったのだろうというぐらい素早く届いた。

 テレビ一杯は、仲間内の呼び方だった。I駅の地下にあった待ち合わせ場所の一つで、モニターがたくさん並んで広告が流れるようになっている場所だった。現在、どのようになっているのか知らなかったが、高校生の頃はいつもの待ち合わせ場所だったから最適だと思ったのだ。

 ミキにはたくさん聞きたいことがあった。当時は聞けなかったことも、今なら聞くことができるし、多少のことなら笑い合えるような確信もあった。

 前年に中学の同窓会があり、タカツネは驚愕の体験をしていた。

 付き合っていた女子にその話をすると、一つの例外もなく覚えていないとけんもほろろだったのだ。

 どの例も、後日、証拠となる思い出話をすることで、あっ、という感じでやっと思いだしてもらって、元カレとしての地位を辛うじて挽回した。

 男子はロマンチックで、女子は現実主義だといわれるが、十代の幼い恋物語を男子は大事に心にとどめているのに、女子はかなり早い段階で捨ててしまうのだと、タカツネは思い知らされたのだ。

 ミキが、受付でタカツネの元カノだと言った後で、受付業務に戻ったら

 「やっぱり二人は付き合っていたんだね」

 と同じ業務をしている同窓女子に言われた。

 タカツネはミキの本当の彼ではなく、本当の彼は他の学校にいるという話を覚えている人がいるのだと知って、驚くと同時に、どうしてミキが自分を元カノといったのか疑問に思った。

 一緒にいる頃、暗号遊びは二人のブームだった。秘密を共有している苦しみが生み出した自虐的なゲームだった。

 元カノというワードは、暗号なのかもしれないと思うたびに、考えすぎだと疑問を打ち消したが、タカツネはそんなことも話題にしてみたいと思っていた。

 「風邪引くよ。まだ寒いんだから」

 タカツネの妻の声がした。タカツネは、了解と返事をして、タバコに火を点けた。

 室内は禁煙だから、自宅でもベランダでタバコを吸うようになって十年以上経つ。

 ホタル族はベランダで季節を肌で感じる。タカツネは、煙を燻らせながら、何も見えない夜空を見上げながら、葉桜も過ぎて晩春になってきていると感じていた。

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