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携帯電話のランプが緑色に光っていた。
ミユキにとって、携帯電話は緊急連絡用の装置で光るどころか、鳴ることも珍しいものだったので、鞄の中で光っている様子は新しい生物を発見してしまったような奇妙な光景だった。
すぐに携帯電話を手にはできなかった。
同窓会から二カ月が経っていた。
ヨウスケの番号は、帰りの電車の中でわからない操作にイライラしながら着信拒否にした。別の番号からかけてきたのかもしれないと考えた。
刺したり、噛んだりするかもしれない、と警戒するように携帯電話を鞄から出した。緑のランプの点滅は、留守番電話のメッセージがあるという意味だった。
表示された相手は、数字の羅列だった。電話帳に登録されていない番号からだという意味だといことはミユキにもわかった。嫌な推測の可能性は少し高まったはずなのに、ミユキは『違う』と直感した。
留守番のメッセージを聞く操作をすると、早口のメッセージが再生された。
「イケダです。電話番号が交換できなかったけど、無理を言って幹事から聞き出しました。ルール違反な気もするけど勘弁してください。ほとんど話ができなかったので、何人かで集まって飲みたいなぁ、と思っています。また、こちらから電話をします。もし、そういう集まりに興味がなく、電話も迷惑であれば着信拒否にしてください。『そういう運命だったのだ』と諦めます。以上、イケダでした」
ミユキは携帯を耳にしたまま、笑ってしまった。
イケダ・タカツネ。
同窓会で会ったときは、太った中年になったと感じたけれど、電話での話し方や声は昔と変わらないものだ、と思ったのだ。
イケダです、と苗字を名乗ったところも彼らしいと思った。
同窓会で男子たちが言っていた。四十代後半になって呼び捨てされたり、あだ名で呼ばれたりするのは新鮮で、一気にあの頃に戻る。ミユキも、同じことを感じていた。
男子だけではなく、女子だって同じなのだ。ママ友は子供の名前をベースにした呼び名があり、仕事でもさん付けか、役職で呼ばれている。呼び捨てやあだ名でやり取りがある場合は悪意を伴っている不愉快なものだけだ。
でも、同窓の仲間にはそういう悪意は一切なく、親愛に溢れていた。
イケダではなく、タカだ。
ミユキの中で、イケダタカツネはタカのままだと同窓会でも感じていた。
高校一年のときに付き合っていた。いわゆる元カレだ。
同窓会に出掛けるときに、ミユキの母親は懐かしそうにタカの名前を出して言ったのだ。
「たぶん、あんたの男運がない人生で、唯一の確実に幸せにしてくれる男だったよね」
よけいなお世話だと少し怒ったふりをしたが、否定できないとも思った。
幸せで楽しい思い出ばかりで懐かしかった。
同窓会でタカは受付にいた。受付は三年時のクラス別になっていて、八クラス分の机が並んでいた。
タカは四組の受付にいた。
ミユキは八組だったので、気がついていないふりをして前を通っていこうとした。
「ミキ!」
大きな声でタカに呼ばれた。タカは受付を出て来て、変わらないなぁ、と言いながらミユキの前に立った。
ミキと自分を呼ぶのは、高校時代の友人だけだ。
入学した最初のクラスにミユキという名前の女子が自分以外にももう一人いた。自己紹介のときのもう一人のミユキが先に『ミユキと呼んでください』と可愛く挨拶した。女同士は常に水面下では好戦的だが、十六歳でもこういうポジション取りは先手必勝だった。
ミユキは、ミユキではなく、ミキと呼ばれることになった。みきという名前の女子がクラスにいなくて良かった、とミユキは安心した。卒業まで、ミユキはミキだった。本当にミキだと思っている同窓生もいると思う。
負けたと後悔するほど名前に固執はしていなかったので、ミユキは高校時代をミキとして過ごしたことに満足していたし、こうしてみれば、ミキと呼ばれると若返った感じがするので嬉しいかった。
変わらないなぁ、とタカにいわれて、ミユキは嘘が下手な男だと思った。
男の表情というのは、本人が思っている以上に饒舌なのだ。タカは驚いた顔をしていた。変わらないという驚きではなく、変わったという驚きだ。
反射的に意地悪なことを言いたくなった。
「そんなことないでしょう。元カノがおばさんになってガッカリしたんでしょう?」
タカは少し困った顔をしたが、すぐに、声を落とさずに切り返した。
「ミキの容姿じゃなくて、オレは中身に惚れていたんだから全然ショックじゃないよ」
受付の一角の時間が止まった。タカは高校時代から人前で平気でこの手の言葉を使うことをミユキは思いだして、年柄にもなく頬が熱くなるのを感じだ。
悪い気はしなかった。そういうところが、タカらしさだった。
『同窓会に出席して良かった』とミユキは思い始めていた。
留守番メッセージを聞いて、ミユキは急いで職場を出た。
家までは歩いて帰る。同居している母親が夕食を作ってくれているので、寄り道をすることもほとんどない。
職場があるビルの前は駅のロータリーで小さな広場がある。そんなことはしたことがなかったが、空いているベンチに座って、携帯電話を取りだした。
タカの電話番号を電話帳に登録した。
深呼吸を一度して、登録したばかりのタカの番号を選択して、実行ボタンを押した。
見上げると、桜の枝は今にも咲きそうなピンクの蕾で一杯だった。
今年は桜の花が観測史上最も速く咲きそうだと、昨夜のニュースで見たことをミユキは思い出した。
春が始まる夕暮れは、まだ少し肌寒い。
空いた手で携帯電話を持った腕をさすりながらミユキは耳を澄ませた。