【第3回】第一章・挑戦(3) | マイナビブックス

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ゴッド・ポーカー

【第3回】第一章・挑戦(3)

2016.06.06 | 松井久尚

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 笑われてもいいが、俺がこの未来のない社会でなんとか踏ん張れていたのは、家族を、この一族を俺が守るという決意だった。
 職場には定時で帰ることをミッションに会社に来る老兵が六人いる。百人を超える事業部の中でも「墓場」に位置するチーム。俺以外は全員五十歳以上で、髪の毛と有給が残っているのは俺だけだ。
 今日の五時、俺が理奈のメールに気づく直前も、彼らはいつも通り雑務の指示メールを俺のパソコンへせっせと流し込んでいた。残業代という労働基準法は半分に押し込み、「仕事をする人とさせる人」という労使関係だけは命がけで守り抜く戦士たち。この四年間、俺の夜は彼ら決死の戦闘による後処理に消えた。
 学生から社会人への変化。それは、自分が「主人公でなくなる」ことではないだろうか。
 大学生までは自分が人生の主人公で、いつ、どこで、誰と、何をやってもよかった。平日の街は彼らの天下だった。
 それが組織という社会では、いつ、誰と、どこで、何を、どうやるかまで、全てが決められている。それも、ようやく主人公となった三十五年上の先輩によって、名もない自分は指先の動きまで指示される。
 未来ある若者は、その未来が終わるまで逆さまのピラミッドのように空を覆う「上」によって浪費され続ける。日本が唯一世界で断トツのトップを誇れる「少子高齢化」。その日本社会の縮図のような日本企業。そこに無理やり入るために、羽のある若者たちも、創り上げた大好きな自分を必死に折り曲げ続ける。
 曲げ続けた結果ポキリと折れた音を聞いて初めて、社会は「ようこそ大人へ」と歓迎する。
 地に足をつけたら大人になるのか。それとも、羽を失っただけなのか。
 
 それでも必死に走り続けられたのは、自分を戦場へと送りこんでくれた家族、特にお袋のためだった。仕事は嫌でも三人分はこなし、努力して勉強してきた以上を社会に貢献してきたはずだった。社会から与えてもらったインプットを、ついにアウトプットが超え始めたような気がしていた。普通の中小企業なら課長レベルの給料をもらい、俺にしかできない額を仕送りもしてきた。
 それが全て、この安い悪意で作られた空虚のガラクタへと変わっていた。
 
 親父が死んでからずっと俺が守ってきたはずの家族は、薄汚れたガラクタを生み出すようなバラバラになっていた。
 家族を最後に結ぶこの家すら、ある日突然奪われようとしている。
 貧乏で、不運で、不公平だと自分の中で思い切り叫んだこともあった。それでも、正しくて、どこにも負けない家族だと信じてきた。誰だってそうだ。自分の家族、自分の両親が一番だ。
 一体その歯車は、いつ、どこから狂い始めていたのだろうか。
 この家族に、俺の知らない何が隠されているのだ。
 俺は確かに、何も知らなかったのかもしれない――。
 
「ティリリリ、ティリリリ」
 突然の電子音に床に倒れたままの体がびくりと反応した。電話だ。二年前と変わらないはずの電話の音も、二度と戻れない時を流し込むように耳にぶつかっては落ちていった。
「誰だ、こんな時間に」そう見上げた俺から、理奈と海斗までが目を逸らした。
 なんだ?
 俺は二人が出す違和感を何度か確認しながらも、上半身を起こして電話の子機に手を伸ばした。非通知だ。
「やめといた方がいいよ」
 海斗が唸るように出した低い声は、悔しさとも怯えとも取れる震え方をしていた。やめといた方がいいとは、どういう意味だ? 受話器の非通知という文字が、突如俺の胃に真っ黒い塊を投げつけたようにズンと痛みが走った。
「それ、無言電話」
 海斗の一言が、暗黒に染まる沈黙をリビングに放り投げた。沈黙は床に落ちた瞬間に、墨汁のバケツをぶちまけたように壁中を汚した。二十年以上支えてきた我が家の壁も、たった一振りで二度と消せない闇に沈む。
 無言電話? 我が家に、なぜ?
「この一週間、三時間に一回毎日かかってくるんだ。警察に言ったら、空き巣の手口だって。どこかから手に入れた住所と電話番号を使い、どの時間に人がいるのかを記録しているんだとか」
 大きいはずの肩を固めるように前屈みになった海斗に、今度は理奈がお袋を挟んで白い手をポンと置いた。潤った彼女の指でさえ、小刻みに震えているのが床に座り込んだままの俺の目にも分かった。
「空き巣かどうかは、分からないし、警察はただ、何かあったら言ってくれで終わったけど」理奈が俺とは目を合わせないまま吐き出した声は、床に落ちた後もしばらく震えていた。部屋に渦巻く闇が震えで歪んでいく中、俺たちは無機質に鳴り続ける何かからの電話に骨の髄から削られていった。
 
「……ごめんなさい。ごめんなさい」
 前からつぶやいていたのだろうか。ようやく無言電話が鳴り止んだ後、気が付けばお袋がまた泣きながら謝っていた。
「ごめん」と俺を起き上がらせようと差し出した海斗の手をどけ、俺は重すぎる体を息を吐きながら起き上がらせた。海斗に投げられたことによる痛みはないはずだ。それでも、俺の体は鉛のように重く、真っ直ぐに保てないほど回転し続けていた。
 
 電話の親機の左側に置いてあるテレビ。親父が我が家に残した最後の買い物で、たしか五十二インチ。初めて届いた時は「映画館」と下の二人が騒いだのがもう十年以上前。その横には、親父がまだ生きていた時、六人で行った最後の家族旅行の写真が飾られている。沖縄の海で、心のままを映し出した、透き通る笑顔が六つあった。
 今もこうして、何年かぶりに五人で集まった。しかし、たとえ同じ家族で、同じリビングに集まったとしても、この写真の俺たちはもう誰一人いない。
 好きだった「場所」には戻れても、そこにいた自分で、そこにいた仲間と、そこにあった時をまた共に歩くのは、もう二度とできない。
 永遠に同じ場所に同じ時間が流れることはないのだ。
 
 空気の色を変えた二年ぶりのリビングに、最も恐れる兄弟の沈黙。破られることを恐れる電話機の沈黙が被さる中、ただお袋の謝罪だけが流れ続けた。もう、海斗も理奈も下を向いて固まったまま、無言で母親の謝罪を震える背中で受け続けていた。
「……ホワイトハット」
 自分を守るかのように機能を停止した脳が、ふと先ほど陸がつぶやいた言葉に引っかかった。俺は何も考えられないまま、スマートフォンを取り出してみた。充電が残りわずか。慌ててきたため充電器をアパートに忘れてしまった。ふと顔を上げるが、兄弟の誰かが、同じ充電器を持っているのかも分からなかった。
 スクリーンが突如不安で霞んで映った。陸の言葉を無意識に検索した。
 
『ホワイトハット=善玉のハッカー』
 ……ん? ハッカーとは、何だ。
 それも、ハッカーの「善玉」とは何だ。
 ……というか、陸はハッカーだったのか?
 
 俺は崩れるように二年ぶりに食卓の椅子へ座る。そこからただぼんやりとリビングを見渡した。視界を失った眼球にただ光景をぶつけているだけかもしれない。
 他に何が失われているのか、気づいてしまう方がよっぽど怖かった。
 見慣れたはずのリビングに、唯一知らない、段ボール箱が三つ並んでいる。
 今の頭は意味を持たせようと一歩踏み出すこともしなかった。ただ、本能だけが、その段ボール箱をどす黒く映し出していた。
 
 徹底的に浪費され続けた社会。それでも必死に自分を回し続けた歯車だった家族。
 その家族に、もう誰も残っていなかった。
 鬱病のお袋。ハッカーらしい陸。輝きを消された下の二人。
 俺の命と引き換えの仕送りを全て吸い上げていた神からの段ボール。薄らと笑うように響き続ける無言電話。誰からどう狙われているのかも分からない我が家の最後の姿。
 
 別の物体のようにカタカタと震える足を睨みつける。音も動作も、無機質であることを隠そうともしてくれない。
 てめえの二十七年間を、こんな形で終わらせていいのかよ――。
 ヘドロのように闇を排出し続ける段ボールの置かれたリビングを、俺たち家族の終点にしてよいわけがない。
 
「理奈、海斗。……力を貸せ」
 
 俺はその言葉だけを宙に放り投げ、食卓のテーブルの上に倒れ込んだ。
 長男の俺が、必ず、この家族を取り戻すのだ。
 人を壊して笑う獣から、震える家族を覗き込む神まで。まとめて俺が、相手になってやる。

 

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