金曜日の夜、俊にとっては久し振りの飲み会だった。サークル仲間の中でも特に内々の四人だけで重野の部屋に集まり、座卓に置いたホットプレートでお好み焼きパーティーを楽しんだ。
使った食器やホットプレートをみんなで除けた後、座卓を囲んで男たちはビール缶を持ち、女二人はチューハイ缶を手にテーブルを囲んで乾杯をする。一口飲んで、口々に感想を漏らした。
「ビールぬるいです……」
買って来たばかりのビールに、俊は苦笑して思わず舌を出した。口内に飲み薬のような香りと味が広がる。
「氷入れるか?」
隣でベッドにもたれかかる重野が言う。
「味、薄なるけどな」
「いやあ、これは駄目だわ……」
俊はもう一口飲んで、悶絶した。そうして、向かいで見つめる目に缶を差し出す。
「マリー、飲んでみる?」
テーブルの上に腕を伸ばした彼女が、受け取って一口啜る。あからさまに眉を寄せた。
「返す」
と、同じように舌を出して寄越す。
「シゲ、ぬるいのいけんだ」
俊は、隣でサラミを摘みながらでビールの進む彼に言う。
「いや、俺の冷えてる」
と、重野が問題なさそうに一口呷った。
「なんで」
彼の手にある缶に触れてみた。それは確かに冷たく、結露が指に付着する。彼の手から奪い取って、一口飲んでみる。炭酸もしっかりしていて、のどごしがよかった。
すると、重野が笑みを浮かべて言った。
「それ元々俺ん家にあったやつ」
「おまえ、自分のだけふざけんな……」
俊はぬるいビールを彼に差し出す。
「飲め」
重野が仕方なく一口呷り、渋い表情をした。
「あかんやつや……」
落ち着いたトーンで始まった酒の席で、二回生のラン子が演劇の話題を持ち込んだ。最初は、卒業公演まで時間がないという話だったが、やがて酒が回りだした重野の演劇論に変わっていった。
俊は相槌を打ったりして幾つか彼に質問したりするが、結果話にはついて行けず、どんどんと口数も減り、酒だけが進む。演劇が純粋に大好きなラン子も、脚本に熱い茉莉も、輝いて見えた。
劣等感、引け目、俊が話に入る余地などない。彼は日頃、舞台で演じるみんなに、指示された通りに光を当てるだけの存在だ。そこに情熱や、信念はなかった。ただ、友達と繋がっていたい。彼にとっては、その為だけの演劇サークルだ。
みんなそれは分かってくれている。だからこそ未だに、こうして飲み会にも呼んでくれるのだ。
「俊ちゃん、大丈夫……?」
茉莉が少し心配そうな顔をして尋ねた。俊は虚ろに笑う。みんなの気を引く為に、買って来た焼酎を開けていた。
「シゲさん、お酒足りてないやん」
下手くそなイントネーションで、俊は重野に絡んだ。
「おまえ、関西人なめとんな……」
重野の羽交い絞めに合いながらも、俊は用意したコップに焼酎を注ぐ。
「飲めや」
と、テーブルにスライドさせて差し出す。
「焼酎はあかんて……」
「なんでや」
「明日、練習あるって……」
「俺も明日、おめーのせいで用があるんだよ」
怖気づく重野に、俊は凄んだ。木村たち四回生と大学近くのカフェで待ち合わせだ。
「こいつ、完全に酔うとんな……」
知りもせず、重野が引き攣った笑みを浮かべる。茉莉もラン子も、可笑しそうに声を立てていた。
「マジでか……」
と、乗りと理性の狭間で揺れるうに、重野が目の前に置かれたコップを眺める。
「マジや」
間を埋めるように、俊は乗りを口にした。重野の躊躇う横顔を見て、自分が悪のように思えた。真剣に演劇に打ち込む彼の、足を引っ張るような真似などしたいはずもない。言ったはずが、もはや彼に飲まないで欲しいという思いで一杯だった。それでも、重野は笑って、一気にコップの中を飲み干す。
「これは明日やばいで」
と、彼が少し潤んだ目で瞬きをする。クウォーターだという彼のすっきりと伸びた鼻が仄かに赤くなった。
「シゲっちが明日休んだらみんな喜ぶよ」
と、茉莉が意地悪を言う。
「おい……俺、部長や」
厳しく、口うるさい重野がいなければみんな和やかに練習がやれる、そういう意味だった。俊は分からなくもないと、酔った頭で思いながら、小さく笑った。
でも、それだけいい舞台に仕上がるのだから、それは結果的に良いことなんじゃないか、と思う。
みんなが舞台作品のDVDをテレビ画面で鑑賞し始めると、俊はまた居場所を失くし、虚しくベッドへと逃れた。明日のこともあるからと久し振りに参加してみた飲み会も、来た甲斐がない。
何の為に、今晩秋を独りにして来たのか。
「俊、外出ようや」
小さく、意外にも重野が声を掛けて来た。
俊は顔を上げる。
「酒、買いに?」
「ちゃうて」
と、否定して彼がベッドに上り、その直ぐ脇にある窓をガラガラと開けた。サッシを跨いで行く。
「ああ……」
と、俊はそれを見て納得した。そういえば、重野の部屋の外には屋根があった。真下に住む家主の物だ。
俊はテーブルに手を伸ばし、百円ライターと煙草のケースを掴み、起き上がった。
「俊ちゃん、落ちないでよ」
ベッドの上でふらついていると、後ろから茉莉が言った。おう、と手を挙げて重野に続く。重野が窓を閉め、二人で並んで屋根の上に座った。
夜風が心地よく火照った肌を撫でる。目の前には、暗い川が流れていた。
「俊が茉莉と仲良なってほんま良かったわ」
「は……?」
突然言い出した重野に、俊は思わずライターを擦る手を止めた。
「ちゃうやん。初めの頃とかさ、おまえ部室来ても全然誰ともしゃべらへんかったやん。自分の世界入って来んな、みたいな感じで」
何が言いたいのか。
「まあ……ね」
俊はかつての自分を引き合いに出されて、恥ずかしい思いになる。引っ込み思案な自分について語る言葉は何もない。
「今やから言うけど……最初の頃、俊まあまあ浮いてたで。何考えてるかわからんて」
「はい……」
酔いのクッションで、その事実を受け止める。俊は、煙を吐いた。忘れようとしていたが、そうであったろうと少し振り返れば簡単に思い当たる。
「それが今や女子と後輩と一緒に酒飲めてるって凄いやん」
「うん……まあ、そうかもな」
見くびられ過ぎているようで多少腹も立つが、事実ではあるなと思った。
「秋ちゃんと付き合ってから、俊だいぶ変わったやんな」
「そう?」
「うん、なんか人間に自信がついたみたいな」
「ああ……」
言われて、そんな気がしないでもない。何が変わったと言われてもピンとは来ないが、それは認めざるを得ないところだった。
「でも、そんなに変われてないけどな」
俊は苦笑して言った。嫌いな自分も、弱い自分も、未だに健在だ。
「アホか」
と、重野は言った。
「一回の頃と比べたら雲泥の差や」
俊は笑った。
「おまえ、さっきから何なんだよ」
「こんな時しか言えへんこともあるやん」
と、重野は微笑み、脇に置かれた俊の小箱を取る。
「吸うの?」
少し驚いて尋ねる。
「一本吸うたかて死にゃせん」
と、フィルターを噛みながら答える。慣れた様子で火を点け、煙を噴いた。普段は喉に悪いからと毛嫌いしている彼だが、出会う前まではよく吸っていたのかなと思わせた。
「秋ちゃん、大事にせーよ」
「してるよ」
「卒業したら結婚すんの?」
「まあ……たぶん」
「たぶんって何やねん。秋ちゃんじゃあかんの?」
「ん、シゲお義父さんだな……」
「当たり前や。俺が紹介したんやから最後まで見届けたいやん」
「じゃあ、仲人頼もうかな」
「頼まれんでもやるて」
「あ、そう」
「秋ちゃんもその気なんやろ?」
「さあ……フリーター辞める気もなさそうだし、もしかしたらそういうつもりかもね」
「そういうつもりて……」
重野が灰を風に弾きながら、少し不満そうに俊を見つめた。
「おまえら、あんま上手くいってへんの?」
「ん……いや」
俊は、少し頭に過ぎるものを酔いのまま流す。本当に、このまま結婚するのだろうか。近いようで、何か途方もないことのように思えて、現実味がなかった。
「上手く、いってるよ」
と、頷いた。
*
木村たち四回生の言い分は、もっともだと思った。卒業公演であるはずなのに、重野が、自分が主役を張ると言って聞かないのだそうだ。ただ、一緒に居た川口という冴えない女の先輩が重野の演技批判を始めた時には、一気に体力を奪われた。
正午過ぎから始まった妬みの渦巻く会合は夜の八時過ぎまで続いた。話は初めの三時間ほどで、俊が重野を説得することで収束を見せていたが、そこからとりとめのない世間話が始まり、帰るタイミングを逸した俊は、ひたすら愛想笑いを顔に貼り付ける時間を過ごさねばならなかった。
「今日はごめんな」
という、別れ際の木村からの労いが唯一の救いだった。俊は自転車を漕いで、そこから三十分掛かる秋の部屋に向かう。本当はそのまま大学から逆方向にある自分のアパートに帰って眠りたい気持ちだったが、彼女が寂しがるかと思い、疲れた心身に鞭を打って行くことにした。
途中のコンビニで栄養ドリンクを買い、その場で飲み干した。余裕を、作らなければならなかった。
自分のことで精一杯になってはいけない。疲れている時は普段なら受け入れられることも、煩わしく思える。相手の気持ちを考えることを面倒に感じ、傷つけるような言葉を吐いてしまう可能性がある。常に、少しでも自分に余裕を持たせなければならない。
特に傷つけたくない相手の前では。