【第2回】アンバランス
2016.05.10 | 山下大輔
アンバランス
月も変わり、日差しが徐々に強さを増して来た頃、俊は講義終わりに、教室の前で待ち伏せていた重野しげのという男に連れ去られてしまった。
「演劇、来るやんな?」
と、にたりとして見据えられた後、別校舎のサークル棟まで首根っこと二の腕を押さえられたまま連れて行かれる。
「卒業公演って俺も出ないとダメ?」
エレベーターの中で、俊は隣に並ぶ男に尋ねた。
「当たり前やん」
と、重野は憮然とした表情を向ける。彼は、サークルの部長だった。
六階建ての五階で降り、俊は演劇サークルの練習室まで連れて行かれる。ドアを開ける重野に続いて中に入ると、椅子を並べて円形に座る部員たちが五六人いた。その脇の部屋隅では、茉莉が一人、長テーブルに向かっている。
「おっ」
と、茉莉がこちらの気配に気付いて顔を上げ、嬉しそうに笑う。
「いらっしゃい」
にこりと、厚いチークが盛り上がった。
「帰りたいです」
と、俊は笑った。
「俊ちゃん無理やり連れて来たの?」
と、茉莉は重野を見上げて尋ねた。
「そうせんと、こいつ絶対来ぉへんやん」
重野は、正しいことを言った。俊は一回生の半ばから全く練習に来なくなった幽霊部員だ。活動は時折部の公演で裏方を手伝う程度だった。
俊が練習に来なくなった理由はただ一つ、初めて出演した公演で台詞をとちったからだ。元々緊張しいで向いていないと自分で判断したのもあるが、一つのミスでその舞台が台無しになるかと思うと耐え切れなかったのだ。他の部員たちの努力を藻屑にしてしまうかと思うと、軽い気持ちで入った自分にはそこまでの責任は負えないと思った。
「俊ちゃん舞台苦手なんだから、また照明お願いしたらいいじゃん」
茉莉が重野に言った。
「ええ……? 結局?」
重野が不満そうに俊の顔を見た。
「任せろ。シゲにありとあらゆるライト当ててやるから」
「どういう意味やねん……」
と、冗談に重野が笑った。
「まあ、えっか」
と、結局は許可をする。俊は彼が離れた後、茉莉に耳打ちする。
「助かった」
「いいよ、別に」
彼女は理解してくれていた。ただ、一方の重野は舞台俳優志望なので、しきりに出演を誘ってくる。一人の人間を演じ切ることの楽しさを味わって欲しい、耳に穴が開くほど聞かされ続けた言葉だ。
「今度、ジュース奢るわ」
「安いな……ご飯がいい」
「食堂?」
「いやいやいや……ハンバーグ食べたい」
「え、今日?」
「今日じゃなくて全然いいよ。俊ちゃんの奢りたい気分の日で」
「そんな日ねーよ……」
茉莉と約束ともつかない約束をして、話題は彼女の手元にある台本に移った。舞台公演の時はほとんど彼女が一人で台本を書いているのだ。しかしまだいろいろと悩むこともあるらしく、本中の台詞やト書きにはいくつも訂正の二重線が引かれていた。
「卒業公演だからなあ……」
茉莉が渋い顔をして、頭を掻いた。四回生たちが久し振りに参加するその舞台が、月末に迫っていた。定期試験を終えて直ぐだ。
「なんか問題あんの?」
俊は、浮かない様子の彼女に尋ねる。すると、彼女がちらと円形を取る後輩たちの方を見やった。視線を俊に上げる。
「シゲっちが、木村さんたちと揉めてる」
と、声を潜めて言った。
「マジで?」
俊は驚きながら、後輩たちの読み合わせに付き合っている重野を横目で見た。自信と演劇愛から、演出などによく口を出すので、確かに先輩たちから煙たがられることも多々あるようだ。
「また今度話す」
と、茉莉は言ってこちらに頷く。何やら面倒な事情がありそうだ。
「今回、やけに薄いな」
俊は彼女の手元にあった台本を持ち上げて言った。
「実はまだ最後まで出来てないっていうね……」
彼女が苦しげな笑みを浮かべる。
「やべーじゃん……」
「うん……」
迷いのある彼女の目としばらく見つめ合った。俊は、ぴくりと鼻の穴を広げる。ふっ、と彼女の顔に笑顔が灯った。
「芸人になればいいのに」
*
自分には、何にも無いな。
俊は、演劇サークルのメンバーたちと触れ合うと、いつもそんな思いを抱かされる。みんな才能とか、熱中できることがあって、個々が輝いて見える。自分には、そんなものが何も無い。ただの、平凡な人だ。そして、いつも同じところに辿り着く。
どうして、秋は自分なんて好きになったんだろう。顔がいいわけでもない、特別優しいわけでもない、何か才能があるわけでもない、努力に磨きを掛けるほどの、忍耐もない。誰に何を秀でるでもない自分に、彼女は一体どんな価値を抱いているというのか。
俊は劣等感に苛まれながら、その日ろくに大学図書館での試験勉強も手につかず、日暮れ時に切り上げて、憂鬱な気持ちで秋のアパートに向かった。合鍵で部屋を開けると、秋はいなかった。居て欲しい時にいない。心が寂しい時に、側にいない。ただ一緒に居てくれるだけでいいのに。
俊はどんなに忙しい時でも、無理をしてでも彼女の部屋に通い続けて来た。付き合うとは、恋人とは、支え合う関係であるという持論があるからこそ、彼女に寂しい思いを絶対にさせたくなかったのだ。
実家の、父の愚痴ばかり零し、涙を流す母の思い。母に寄り添わぬ、知らぬ振りをする、父のように自分はなりたくない、なるわけにはいかない。そんな関係は絶対に嫌だ。愛を濃密で強固なものに、僅かの綻びも許さない。
俊は、誰もいない、真っ暗な部屋に照明を点け、玄関を上がった。アンバランスな関係でも、満足だった。秋が自分を必要とする時に、確かに側にいることができれば、それでいいのだ。
トートバッグを置いて、セミダブルのベッドに転がった。少し弾んだ瞬間に、秋の使っているシャンプーの匂いがした。それに少し癒されながら目を閉じる。全ての疲れを柔らかな素材に預けて。
*
玄関からの物音で目を覚ました。照明が眩しく、体は重い。ベッドに倒れ込んだまま、いつの間にか眠ってしまったようだ。
「俊くん、来てたの?」
と、秋の声が廊下の方から聞こえて来る。ビニル袋のかさつく音と共に、彼女の気配が間近でした。
「寝てたの?」
澄んだ、真っ直ぐと見つめる瞳が、頭上にあった。すっと落下して、唇が触れる。微かに、アルコールの少し冷えた温度がした。
「飲んでたの?」
顔を上げた彼女に、俊は欠伸して尋ねた。
「うん」
と、彼女が頷く。
「高校の時の友達と。沙織、理佳、あかね……」
指折り数える彼女に、俊は力なく笑った。
「誰だよ……」
そうして、今何時かとジーパンのポケットを弄る。スマートフォンを取り出し、指でなぞった。日付の変わる直前だったが、俊はまだ開かぬ瞼をさらに下ろして、顔を歪めた。演劇サークルの重鎮、四回生の木村からメールの着信だった。
内容は、重野のことで相談したいことがあるから週末を空けておけ、だ。
「めんどくせえ……」
俊は堪らず寝転がったままぼやいた。木村のやりそうなことだった。重野との仲持ちを、自分にさせようというのだ。四回生たちは、現部長である重野を疎んじている。本格的に演劇に取り組んできた重野の実力は部内でもぐんを抜いており、その知識も深いことから、劣る彼らは重野に偉そうなことが何も言えないのだ。
恐らく、茉莉が忙しいからと、今回はその次に彼に近しい自分に説得役が回って来たのだ。
「自分らで話せよな……」
俊はそう吐き出して、不機嫌な気持ちで目が冴える。コンタクトレンズが乾いていて、上手くいかない視界に苛立ちが募る。
「起きた?」
秋が嬉しそうに寄って来た。抱きつこうとするのが分かって、俊はその前にベッドを降りた。胃にもたれるような感情が飽和した状態で彼女に触れたくはない。
「何か怒ってる?」
洗面所に逃げようとしたところで、彼女が後ろから声を掛けた。
「いや」
と、言って俊は振り返った。不安そうな顔を向ける彼女に、俊は平然を装う。
「ちょっとストレスで」
と、苦笑を見せ、そのままリビングを出た。週末は恐らく、重野の代わりに自分が先輩たちから嫌味を聴かされる。そして、演劇から逃げ出した自分は部内で最も発言権がなく、何も言い返すことはできない。当然、言われたことを重野に伝えても、舞台に関することであれば彼の怒りを買うだけ。
嫉妬や意地、だから人間関係は面倒くさい。
俊が寝ぼけた顔を鏡に映しながら歯を磨いていると、秋がそっとドアを開けて覗き込んで来た。
「俊くん……なんでストレス溜まってんの?」
まだ不安げな眼差しを向けていた。
「私が友達と遊びに行ってこんな時間まで帰って来なかったから怒ってるの……?」
小さく、窺うように言う彼女に、俊は歯ブラシを咥えた状態で、肩で笑ってみせた。
そんなことで怒るわけがない。
「なんでだよ」
と、上手く歯磨き粉で満ちた口内で答える。
「じゃ、なんでストレス……?」
それでも自分のせいではないかという思いを払拭できない様子で彼女が尋ねる。俊は、仕方なく答えた。
「サークルのいざこざ」
それだけ言う。
「なんだ、それは知らないよ」
秋が微笑して去って行く。
動かしていた歯ブラシが、一度止まった。俊は、リビングからの彼女の物音を聞くように、半端に閉じられた洗面所のドアの隙間を見た。
覚えた違和感が、薄っすらと寂しい気分にさせた。