【第1回】本物の愛 | マイナビブックス

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【第1回】本物の愛

2016.04.28 | 山下大輔

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本物の愛

 

 

 一枚の小さなチラシが、フローリングの床に滑り落ちた。

 川崎かわさきしゆんは、集合ポストに溜まっていた郵便物の束を両手にしながら、その行方を追って座卓の下を覗き込む。何処へ消えたのか、チラシは見当たらない。大きな埃の塊が幾つもそこにあるだけだった。掃除癖のない彼にとっては億劫な気分になる発見だ。

 そんな彼がふと視線を上げると、付き合い始めてもうすぐ二年になる恋人の秋が、見つけたらしく、既にそれを手にしていた。じっと、彼女はそれを眺めている。

 落ちたのは、よくポスティングされているピンクチラシだった。

 俊は、別に疚しい理由で入っていたわけではないことを説明しようとしたが、嫌に長く見入っている彼女に、何と言葉を掛けていいのか分からなくなった。タイミングを失い、こちらも気付かぬ振りを決め込んだところで秋が言う。

「別に風俗行ってもいいよ」

「へ?」

 奇妙な発言に、俊は振り返った。彼女は片手でチラシを小さく波打たせながら、真っ当な顔で続ける。

「男の子って一人でしたくなる時あるでしょ」

 にやりと、まるでお見通しといった表情を向ける彼女だった。しかし、俊は笑みを返す。

「そりゃ、たまにはあるけど」

 と、動揺を隠して。

「それと風俗とは話が違うだろ」

「いっしょだよ」

 彼女は即答して、さっきとは違う少し寂しげな笑みを浮かべる。そして、下着姿の女が映るその小さなチラシを、雑巾をしぼるような手つきで丸め始めた。

「だって、そこに愛はないんだから」

 彼女の投げたそれは、大きく孤を描き、ワンルームの隅にあるゴミ箱に落ちた。

 

         *

 

 昼休みの群衆が引き払うのを待って、俊は生協食堂へと歩いた。トートバッグを片手に、人の流れに逆らい、ぬるい風を切って、人の疎らになった堂内に悠々と入る。六月も終わりに近づき、中は冷房が効いていた。昼食は、安価のうどんと小鉢が一つ。今日初めての食事、遅い朝食ともいえる。

 会計を済ませて、盆を手に閑散とした堂内を見回す。俊は、一番奥のテーブルに向かった。馴染みの後ろ姿を回り込んで、彼女の前に立つ。マスカラを付けた、大きな目が窺うように見上げた。その顔が、少し口元を歪に笑う。

 彼女が耳の穴からイヤホンを外し、テーブルに広げていたファッション誌らしき冊子を閉じて彼をじっと見返す。

 俊と同じ、三回生の茉莉まりだ。

「暑そーだな、それ」

 俊は、彼女の白いTシャツの上に乗った、薄く紫がかったストールを見て言う。その上には、さらに彼女の長く茶色い髪がしな垂れ掛かっていた。

 茉莉が苦笑を浮かべる。

「実は外出たら暑い」

 俊は彼女の向かいに腰を下ろす。茉莉は少し気にするように指で布地をついばんでいた。

「マリー、三限ねーの?」

 俊は箸を取りながら言う。

「私、今日は四限から」

 彼女が合わせるように、脇に置いていた紙パックのジュースに刺さったストローを咥えた。

 俊は食べ始めながら、早速、先日の秋の話をした。誰かに、相談したかったのだ。恋人に風俗を勧める女の心理、というものを。

「それ多分、傷つかない為の予防線だよ」

 茉莉が、細過ぎない眉を未だ寄せて答えた。

「出たね、予防線」

 俊はすぐに笑った。〝予防線〟は、茉莉が好んでよく使う言葉だった。

 曰く、悲しみを切り抜ける為に、人は自分に嘘をつく。嘘がその出来事を正当化し、心を守るという。

「好きな人が他の誰かと本気でそんなことしてもいいなんて女の子、普通いないよね」

 茉莉の言葉は、いつも俊の気持ちをはっとさせる。

「だろ? でも女の子独特の、何かそういうのあんのかなって思って」

「女の子にしか理解出来ない考え方なんて、基本的にはないと思うけど……」

 彼女が可笑しそうに、少し笑って言う。

「根底の感情は人間、男女問わず似たようなもんだよ、たぶん」

 俊は彼女の言葉に納得しながら、顎を動かした。

「マリーさん、結論が聞きたい」

 そう急かすと、彼女が思案げに視線を宙に彷徨わせる。そうして、掴んだ言葉を俊に与えた。

「愛なき体の関係はただの性欲処理なんだ、っていう考え方してれば浮気されてもちょっとは気楽になる、が妥当かな」

「なるほどね……」

 俊は、咀嚼しながらその言われたことを噛み砕いた。恋人がそんなことを考えていたのかと思うと、気分は晴れない。

「俊ちゃんが、彼女さんに愛されてる前提での話だけどね」

 茉莉が笑って付け足した。

 俊は箸を置いて、目の前の小悪魔を睨む。

「おまえ一言多いよね、いっつも」

「だって、そうじゃないとさっきの成立しないんだもん」

「んん……」

 そうして、ふと疑問に思い至る。

「何で二年も付き合ってて、あのタイミングだったんだろ」

 俊はまた新たに、彼女に解答を求める。

 しかし、茉莉は笑った。

「知らん」

「もうちょい協力的に考えてよ……」

「だってわかんないもん。俊ちゃんが最近、彼女さんに冷たくしてんじゃないの?」

 茉莉がそっぽを向いて、紙パックに入ったカフェオレを吸い上げる。

 俊は唸りながら頭を悩ませる。秋との日常を思い出しても思い当たる節がないのだ。日頃から彼女のわがままは聞き入れているし、彼女からの頼みごとは大体断らないようにしているし、寂しくさせないよう、日頃から彼女の部屋にいることも多いようにしている。

「でもさ、ちょっと面白い話だよね」

 茉莉が本当に楽しそうな顔をして言った。

「面白くねーよ」

「違うって」

 そう否定して、茉莉が前のめりに声を潜める。

「愛のあるセックス、愛のないセックスっていうけどさ。どこからが愛でどこからが愛じゃないの? っていうさ」

 大胆な言葉を口にしたせいか、彼女が少し照れたように微笑む。俊は苦笑した。哲学的な追及は茉莉の好物だ。

「風俗とかみたいな、性欲処理だけが目的のやつに愛がないんじゃないの?」

 俊は、付き合うのも面倒ながらそう答える。先日の、秋の受け売りだった。

「愛のある、っていうのは?」

 茉莉が聞き返す。

「愛し合うもん同士でやるやつじゃねーの?」

 と、俊は芽ひじきの煮物を箸先で摘みながら言う。

「じゃあ、愛って何?」

 彼女がなおも聞く。

 俊は少しだけ思考を巡らせた。

「〝愛〟は、〝好き〟?」

 答えて、視線を投げると、不満そうに口元をへの字に曲げる彼女がいる。彼女の探究心を満たすにはほど遠かったようだ。

 箸を進めながら、少しして見ると、ストローを咥えながら、茉莉がまだ思考を続けているらしく、白いテーブルの上にじっと視線を落としていた。

 好きにしてくれ、と思いながら俊はそれが終わるのを黙って食事を続けながら待つ。

「俊ちゃんは、彼女のこと愛してる?」

 不意に彼女が口を開き、尋ねた。俊は、口にうどんを含みながら眉を顰める。

 何という質問をするのか。でも、咀嚼して答えられなかったので頷きで返す。

「じゃあさ、今から言う質問に答えてよ」

 待ってましたと言わんばかりに、彼女が切り出す。何か、思いついたようだった。

「はい、俊ちゃん目閉じて」

 と、面白そうに言う。俊は、生き生きとした目をする彼女を前にまた苦笑を浮かべた。少し強引に咀嚼物を飲み込んで訴える。

「俺、いま飯食ってんすけど」

「いいから」

 と、彼女が手を伸ばして来て、目元を覆う。冷たい、しなやかな手の平が瞼に触れる。

「わがままか」

 と、俊は笑い、仕方なく箸を下ろして、目を閉じた。

「今から言うこと想像してね」

「はい」

「彼女さんが道路を挟んだ向こう側から、俊ちゃんに向かって横断して来ようとしています……」

 俊は突然の設定に眉を顰めながら、頭の中に想像する。大きな道路の向かい側に立つ秋が、自分に手を振り、渡って来る。

「そこにトラックが突っ込んで来ました。彼女は驚いて立ち尽くしてしまいます。このままだと彼女さん轢かれちゃうよね。そこですぐ近くでそれを見ていた俊ちゃんは、彼女を助け、身代わりになれますか?」

「ん?」

 俊は目を閉じたまま思わず鼻息を噴き、肩を揺らした。

「なに、その極限状態」

「はい、どーする」

 彼女の手が離れた。眩しい光の中に、目を開く。茉莉が、観察するようにこちらをじっと見つめている。

 俊は仕方なく、もう一度頭の中で想像をしてみた。

 赤信号の横断歩道を悠然と渡る秋。暗い夜道だ。不意に角から曲がってくる大型トラック、そのヘッドライトが彼女の視界を眩ませた。自分は思わず手を伸ばす。しかし、足が動かない。立ち尽くしたまま一歩も前に進まない。その先の自分の足を動かすことができない。

 秋が轢かれてしまう前に目を開け、一端息を吐く。黙って茉莉に目をやると、彼女が戸惑ったように少し眉を寄せた。

「わからん」

 俊はその目に答えた。すると、茉莉が意表をつかれたのか顔を綻ばせる。

「ダメじゃん」

「そうなってみないとわかんねーよ」

「まーね」

 と、彼女が口元を緩めながら頬杖をついた。

「でも、それが愛かもよ。いかに相手の為に犠牲になれるかっていう」

 彼女の言葉に、また一つ俊は感動を覚えた。

「勉強になります」

 と、頭を下げて感服する。いつもいろんなことを考えている彼女は、俊の思う〝大人〟だった。とても今年で二十一になる同い年とは思えない。

「もっと言うと、相手の為に死ねるか、っていうことだけどね」

 茉莉がこちらを窺いながら続ける。

「すごいな、それ」

「ちなみに私だったらねー」

 と、彼女がまたにやりとした笑みを向ける。

「聞いてねーよ」

「聞け」

「はい」

「もし俊ちゃんが轢かれそうになってたら、私が俊ちゃん突き飛ばして代わりに轢かれてもあげてもいいよ」

「マジで?」

 俊は思わず微笑んでしまった。彼女の見つめる眼差しに、少し笑い、すぐに言葉が出る。

「俺は、通り魔に襲われたらマリー身代わりにして逃げるけどな」

「ひどい」

 茉莉が拗ねたように口元をへの字に曲げた。

 残りのおかずと少し冷めたうどんを食べ終えて、俊は一人で外の喫煙所に出た。食後の一服で、煙を吐く。そうしながら、キャンパスの塀の向こうに見える信号機を見上げる。

 赤信号だった。

 俊は、目を閉じる。もう一度、秋の横断場面を想像してみる。そして、やはり立ち尽くし、動けない自分自身だけが妙に生々しく感じられた。

 溜息に似せて白い煙を吐き出す。果たして実際、勇敢にも恋人の身代わりを買って出るだろうか、と。

 

         *

 

 エレベーターで三階まで上る間に、俊は時計を見た。全力で学校から自転車を漕いで来たが、午後十一時半を回っていた。明日までのゼミの課題に追われ、こんな時間にまでなってしまった。

 息を切らせながら、二つ部屋を越えて、角の一室まで足を運ぶ。急いでドアレバーを引くと、玄関の真正面に立つ秋の横顔があった。

「おかえり」

 と、前髪を頭の上に括った彼女が澄ました表情で振り向く。キッチンの強い明かりが、彼女の幼顔を照らしている。

「ね、見て」

 だれた寝巻きを着た彼女が、キッチン台上のスーパーの袋から惣菜パックを取り出し、こちらに掲げた。

「唐揚げ安かったから買って来たよ」

 俊がそれを覗き込むと、確かに丸い割引シールが貼られていた。

「なんと、半額じゃないですか」

 俊が故意に驚いてみせると、秋がへらへらとした笑顔を湛える。無駄に、二人は抱き合った。

 ワンルームの彼女の部屋で、二人は遅い夕食を取る。こたつテーブルに秋が買って来た惣菜と、彼女の作った豆腐とワカメの味噌汁を並べ、二人テレビを観賞しながら、くすりとしてみたり、大笑いをしてみたりして、仲良く食事をする。

 食べ終わると、秋は食器も片付けずに深夜のバラエティー番組を見ながら大笑いを続ける。俊は、明日のゼミの課題がまだ終わっていないので、テーブルの食器を全て廊下のシンクまで運び、パソコンを開くスペースを確保する。

 図書館で借りた分厚い資料をその隣に広げ、続きに目を通すが全然文章が纏まらない。テレビの音と、秋の笑い声で、集中を欠く。それでも、明日までに割り当てられた分のレポートを纏めなくてはならない。俊は、経営史の資料に食らい付いた。

 はかどらない作業を続けている内に、ふと笑い声が聴こえなくなったのに気付く。秋が、馬鹿のように口を開けて寝息をすうすう漏らしていた。ファミレスのアルバイトが忙しかったのか、いつもよりも少し早い就寝だった。

 午前、一時。座椅子で眠り、後ろのベッドに首を預ける彼女に、俊はタオルケットを掛けてやる。リモコンでテレビを消し、ようやくこれからが課題作業の本番だった。

 しかし、俊は彼女を見下ろした。小動物のような幼顔で眠る、一つ年下の彼女。昼間の、茉莉との会話を思い出した。

 トラックに今にも轢かれそうな彼女を、身を呈して助けられるか。彼女を目の前にしてもやっぱり決心はつかない。出来ると信じ込ませること、出来るであろうと簡単に片付けてしまうこと、それは俊にとって容易いことではなかった。

 可能でも、自分に嘘はつきたくない。本物ではなく偽物の気持ちなど抱えていたくはない。それが彼のポリシーだった。

 本物の愛、ふとそんな言葉が頭に浮かび上がる。自分は彼女を愛している、俊は不安な心にそう言った。秋は自分を愛してくれた人、自信を与えてくれた人、そして大切な人。それでも何かもやもやした心持ちが胸中にあり、何か自分が薄汚い人間に思えて来る。

 大きく、溜息を吐いた。考えるのを打ち切る。疲れている時の思考はまともでない、と自分を律した。

 そして、諦めて眠ることにした。明け方に目覚まし時計をセットして、ベッドに横になる。肌掛けを秋が使っているので、仕方なく彼女が脱ぎ散らかしたズボンやらスカートを自分の肌の上に掛け、セミダブルのベッドを占領する。

 天井の照明を、リモコンで切った。目を開けていると、真っ暗で、やけに自分の心だけが闇に浮いているように感じられた。