【第2回】三章 旅立ちの朝(2) | マイナビブックス

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昔の話に途中下車でも (下)

【第2回】三章 旅立ちの朝(2)

2016.03.18 | 松井久尚

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子供のころからずっと一緒だった最初の愛犬との突然の別れは、大学一年生の夏。一人暮らしを始めて、初めてのバイトで夜の十時まで居酒屋のホールをしていた時だ。
深夜組と交代しようやく着替え室に戻ると、俺の携帯電話には着信が八件、メールが九件入っていた。
メールには、愛犬の突然の病気。
「早く戻れ」という、焦りの色で染まった短いメッセージが並んでいた。
家族四人、全員から「とにかく早く」と届いていた。

俺は頭が真っ白になったまま店を飛び出し、ただひたすら駅に向かって走った。バイトに来るような服装だったため、持ち物は財布と携帯と、半年だけ試したタバコぐらいしかなかった。この時間からだと、東京から岡山まで戻れる新幹線があるかもわからなかった。それでも、駅まで走りながら親父に電話を掛け直した。

電話越しに届く親父の声からは、必死に歯を食いしばり、何度も言葉を止めながら、涙をこらえている映像が浮かんできた。
電話の奥からは、お袋と、高校生だった妹の理奈、まだ中学生だった海斗が大泣きしながら愛犬の名前を呼び続けていた。

「親父……」
必死に駅に走りながら、俺は聞きたくない親父の説明を泣きそうな声で求めてしまった。
「今、どこにいるんだ?」
焦りを乗り越え、覚悟に変わってしまった親父の声が、苦しいぐらい優しかったのが今でも忘れられない。
「バイトが終わって駅に向かっている。帰れるところまで帰って、後はタクシーを使う」
貧乏学生だった俺は当時の財布にある金では、深夜の力を得たタクシーには到底勝てないことなど頭になかった。
「そうか……。いいか、落ち着いて、聞いてくれよ」
背後で泣き叫ぶ家族の声を聞きながら、一人落ち着いてしまった親父に、叫んでしまいそうになった。
「あの子は、昼までは全く元気だったのだ。いつも通り散歩も行き、ご飯も相変わらず三十秒で完食して、家族が食べているテーブルに戻りおねだりのお座りを続けていた。それで、食事の後、一番のお気に入りのお母さんの膝を枕にしながら、みんなで居間にいた時だった」
そこで親父の声が高くなり、受話器からは声がしなくなった。
落ち着こうと必死な親父の姿が浮かび、悔しさで受話器を持つ手が震えた。駅までは歩けば十五分ぐらいかかったが、俺の足は止まることなく走り続けた。
「あの子。突然狂いだしたんだ。全くの他人に対して威嚇するように、家族のメンバに吠えだしたり、噛みついたりまでした。十年一緒にいて、もちろんそんなの初めてだよな。それで、今度は吐いたり、かわいそうなぐらい震え出したんだ」
ダメだった。もう涙が止められなかった。
受話器越しの親父は、他の家族の誰よりも大声で泣き出した。
「それでな……、それで、慌てて病院行ったんだよ。震えながら、必死に噛みつくあの子を抱いて。急に襲ってきやがった何かと、一人で必死に戦う優しいあの子を抱きしめたまま。そしたらな、お医者さんに言われたんだ。
急性の子宮ガンだって。
もう、病院にいた時に、すでにあと数時間の命だって、言われちゃったんだよ。お父さん、もう悔しくてな。何も悪くないお医者さんに怒鳴っちまったよ。あの子は小さな体で、急に襲ってきた敵と、震えながら戦っているんだ。俺たちは病名が知りたいんじゃない、どうしたら一緒に戦えるかを聞いているんだってな」
親父の震える心が受話器から体中に流れて、俺は体の中身ごとひっくり返されるような衝撃に襲われた。走っていた足が、力なく勝手に止まってしまった。体が、もう動いてくれなかった。
こんな急に、あの子に会えないなんてことがあるのか?
もう永遠に会えないとはどうゆう意味なのだ?
「あ!」受話器から飛んできた親父の驚きが、矢のように俺の心臓に突き刺さる。
駅まであと三分ほどの一本道で、静かな暗闇の中、俺は受話器の声だけを震える全身で受け止めた。

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