【第1回】三章 旅立ちの朝(1) | マイナビブックス

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昔の話に途中下車でも (上)

【第1回】三章 旅立ちの朝(1)

2016.03.11 | 松井久尚

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三章 旅立ちの朝
 
 
 
 夜中に雨が降ったせいか、湿った地面には水たまりが点々とでき、朝を包む色にも冷たさが混じっていた。中学と高校の六年間毎朝走った五キロのランニングコースを、俺はパートナーと歩いている。
 飛行機では眠れないだろうから睡眠は余計にとっておきたかったが、いつもは犬猿の仲の心と体も、今日だけは珍しく「早起き」で合意してしまったようだ。
 朝の五時頃ということになる。小刻みなバイクの音を一年に一度しか使わなくなったベッドで聞き、もう新聞配達の時間になったのかと体を起こした。様々な考えや思いが溢れてきて、起きたというよりは、眠っていなかったのかもしれない。
 旅立ちの日。朝の七時半。夏はプールでにぎわう大きな公園に向かって、俺は愛犬と共に散歩をしている。
「おい、マブ。眠いか?」
 短い脚を一生懸命前に繰り出しながら、愛犬のマーブルは名前を呼んだ俺を、一瞬だけはるか下から見上げた。首をかしげるように、ベロを出しながら俺の顔を確認する。いつもの「呼ばれただけ」だとわかり、また必死にちょこちょこと前進することに集中したようだ。
 
 マーブル。中型犬のシェットランドシープドックで、おしゃれに毛並に白や茶、黒を混ぜていることから、マーブルと名付けた。今年で六歳の女の子。我が家にとって、二匹目の愛犬、末っ子の妹だ。
 
「あれ、マーブルちゃん?」
 突然女性の声がして思わず後ろを振り向いた。知らないおばさんが小さなマルチーズを散歩させながら、俺の方を不思議そうに見ている。俺は一人暮らしが長かったせいで一瞬戸惑ったが、すぐに散歩界の掟を思い出した。
「おはようございます。僕は長男で、今日のマーブルのお散歩は僕の担当なのですよ。かわいいマルチーズですね。お名前は?」
「あら、そうなのね。マーブルちゃんだと思ったのだけど、お母さんが違ったから。この子はね、リンちゃん」
「女の子かな? よろしくね、リンちゃん」
 俺は中腰になり、マルチーズのリンちゃんに満面の笑みを向ける。リンちゃんはマーブルに興味津々で、匂いをかごうと顔を近づけるが、うちのは逃げるように後ずさりして「早く行こうよ」と助けを求める顔を俺に向け続ける。
 家の中で飼い、とにかく家族になつくマーブルも、実は外では人見知りなのだ。
 ……いや、人は大丈夫で、犬見知りなのだ。
 散歩界の常識だった。微差はあるにしろ、散歩をする人も、時間も、場所も、もちろん犬も、大体は同じルーティンとなる。犬も毎日同じ時間に散歩に行きたがるし、家で飼っているマーブルに関しては、室内にある犬用のトイレは極力使わず、散歩の時まで排出をがまんするようになっていた。そのため散歩仲間が自然とできるようになり、このように連れている人間が異なると、「お母さんは?」となる。
 マーブルのお母さんは、当然俺のお袋になる。朝の散歩タイムは犬が主人公なのだ。
 
 俺は知らないおばさんと簡単なあいさつを終え、再びマーブルと二人きりで歩き出した。長い田んぼの一本道を三十分ほど歩き、大きな公園を二十分で一回りし、また田んぼ道をのんびりと帰ってくる。マーブルの前に飼っていた最初の愛犬の時から、十五年間ずっと変わらない散歩コースだ。
 小学生の時からずっと犬がいるのが当たり前の生活だった。今のマーブルは一匹目の生まれ変わりだと、うちの家族は全員が心から信じている。まあ、信じるも何も、事実に違いない。家族は永遠につながり続けるのだ。
「マブ、お友達がいたね」
 俺は必死に横をついてくるパートナーに、赤ちゃん言葉で話しかける。どうせ呼んだだけだろと、パートナーに振り返ってもらえる時間は先ほどより短くなった。
「おはようございます」
 ランナーによっては、すれ違う際にあいさつを投げかけてくる。山登りや、こうした人の少ない朝も、「普通の人がいない場所」で人間はすれ違うと、どうも不思議な親近感を抱くようだ。
 真っ直ぐな道の両脇には田んぼが続く。途中民家や、小さな神社がポツポツと並び、公園の近くには私立の高校がある。夕方は部活の生徒が、掛け声と共に公園を走っている。
「マブ、おはようと言われたら、おはようと返さなきゃいけないのだよ」
 話しかけたいだけの俺を、マーブルはもう完全に無視していた。
 私にはやることがある。マーブルは夢中で短い足を前に進めながら、その小さくて一生懸命な後ろ姿で俺にエールを送ってくれた。
 
 もし俺が帰ってくるのが五年後ならば、その時にマーブルは十一歳になっている。犬の寿命は十二歳。前の愛犬は、十歳で天国に行き、マーブルに生まれ変わった。
 
 小学校の三年生から毎日一緒だった最初の愛犬。学校から帰ってくると何度も飛びついてきて、「おかえり、どこに行っていたんだよ」と顔を舐めてくる。こたつに入れば、体をぴったりとくっつけて、同じ枕に小さな頭をチョコンと乗せて一緒に寝る。わざわざ狭い場所に入ってきては、とにかくずっと一緒にいたがった。寝ている時に顔を舐められて驚くのが面白いのか、居間での居眠りはいつも愛犬に起こされた。俺たちも寝ている愛犬にキスをするため、それがルールだと思い込んでいるのかもしれない。
 全て、マーブルも同じ行動をする。
 
 涙。働く大人には許されず、必要ともしなくなる心の驚き。その驚きで溢れた学生時代、涙をそっと隠してくれるのは、いつもこの愛犬だった。
 子供に対して大人たちが目の前に示し続ける一本の道。一歩ずつ進んでいきながらも、突然別の道に逸れたり、戻ったり、示される前に走り抜けたくなる衝動に駆られた。それでもいつも目の前に立ちふさがったのは、「では、自分の道はどこにあるのだ?」という叫び出したくなる、答えのない自分だけの問だった。
 本当にこの道を真っ直ぐ歩いていればよいのか。道の先に何かが待っているのではという恐怖と、何も待っていないのではという焦りに挟まれ続けた。
 家と学校しか知らない子供には他の道がわからない。何十年というはるか先から振り返り道を示してくる大人たち。彼らに対し、その道を前に進むことしかできない子供たちの中では、不定期に焦りや悔しさが爆発した。そんな思春期も、愛犬だけは黙って隣に寄り添い、時に一緒に寝て、涙を舐めてくれた。
 泣くと愛犬が飛んできて、必死で顔中舐めまわす。涙が愛しいよだれに変わるころには、いつも俺の顔には笑顔が引っ張り出されていた。

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