【第2回】●従順
2016.05.25 | 山下大輔
●従順
「こんな時間までどこ行ってたの?」
屋上からエレベーターで下り、五階の自宅に幸太が帰ると台所で母親が待ち受けていた。
無視をしながら冷蔵庫を開けると、母親はさらに続ける。
「誰と遊んでたの? 電話してあげるからケータイ出しなさい」
幸太が茶を注ぐ手を止め、「はあ?」と返すと、母親は早く渡せとばかりに手を差し出していた。
「何がしたいの」
幸太はうんざりして、そう冷淡に言う。母親の態度が気に障った。特に最近、嫌気がしている。大学受験をあと半年に控えているので勉強しろとうるさい。今日みたいに、夜中まで出掛けることは許されていない。
「お友達のところに電話するのよ。うちの子が勉強の邪魔をしてごめんなさいって」
「ふざけんなよ……別に誰とも遊んでねえって」
「じゃあ、メール見たらわかるわね」
母親が手を伸ばして来る。制服ズボンのポケットから飛び出しているストラップを強引に引っ張った。
「触んじゃねえよ!」
幸太は母親を突き飛ばした。
しかし、思いのほか強く押してしまったという感覚があった。母親は机に背中をぶつけて小さく呻いた。そして、キッとこの世で一番気持ちの悪い眼差しで睨み上げる。
「あんた……」
ごめん、という言葉のタイミングを見失ってしまった。本当は「大丈夫?」と母親に肩を貸したい気持ち。
それは、憎しみが全て隠してしまった。
「死ねばいいんだ。あんたなんか」
幸太はコップに注いだ麦茶を、へたり込んでいる母親の顔にぶちまけた。急ぎ足で台所を出る。自室のドアを閉める直前、母親のすすり泣きが聞こえた。
窓の外で足音がした。自室はマンションの共同廊下に面しているので、近所の住人の話し声や人の通る足音がよく聞こえる。
妹のしずくが塾から帰ってきたのか、それとも父親が仕事から帰ってきたのか。
父親だったら、台所の有様を見て間違いなく殴られると思った。しずくだったら――、やかましくドアをノックして来るだけだろうと踏んだので幸太は耳詮をしてベッドに転がる。
すぐに部屋のドアが開いた。
飛び込んで来たのは父親のこぶしだった。
深夜に家族が寝静まった頃、幸太はトイレに篭る。
吐く……吐く……吐く。
しかし、出るのは胃液だけだった。今日一日、何も食べていなかったからだ。空腹に勝る胸の苦しさ。それにより、近頃は食べ物が滅多に喉を通らなくなっていた。
時々このままでは死ぬかもしれないと思い、無理に食べる。吐く。でも最近はそれも悪くないと思うようになっていた。
死んでもいい……この苦しみに殺されるのもいいかと。