【第1回】●自殺
2016.05.23 | 山下大輔
●自殺
春先の夜はまだ寒い。幸太(こうた)はコートを着て来なかったことを悔やんだ。風が思っていたよりも吹いている。
遥か遠い地上に投げられた両足が、宙で震えた。幸太は溜息を吐き、屋上を囲む鉄柵に背を預ける。
「なあ……」
と、隣に居る子供に話し掛けた。暗闇で、大きな目がびっくりしたように見開かれるのがわかった。
「おまえ、ここで何してんの?」
「お兄ちゃんこそ、何してんの?」
幼さのある、高い、少年であるらしい声が返った。
「俺は……死のうかどうか考えてんだよ」
「僕もだよ」
少し間が空いた。幸太の、面食らう間の時間だった。
「まだ早いんじゃね?」
言うと、少年が首を大きく振った。
「僕はもう、十分生きました」
「あ……そう」
幸太はブレザーの内からたばこを取り出し、火を灯した。
沈黙が流れる。何か、気まずい空気。
幸太は煙を吹きながら、ちらりと少年を見やる。動きも無く、ただぼんやりと前を向いているだけ。隣に居合わせる他人に対して、緊張感はほとんど見受けられなかった。
「どうしようか……」
幸太は何となく呟いて、少年と同じようにそこから見える広大な景色に目を落とした。光の粒となった町並みが、地表を埋めていた。
間もなくして感じる視線がある。少年がじっとこちらを見つめていた。
「なんだよ……」
「それ、僕も欲しい」
「それって……どれ?」
冷たくて、頼りない小さな手が、幸太の右手に触れた。
「た・ば・こ」
「たばこ? ガキの癖に」
「お兄ちゃんだって大人じゃないでしょ?」
「馬鹿、高校生はいいんだよ」
「お願いっ……一本だけ」
両手を合わせての懇願。
幸太は躊躇いながらも、仕方なく少年に一本渡した。
「やった!」
音の無いマンションの屋上に、子供らしい無邪気な歓喜が駆け抜けた。幸太は奇妙に思いながらもライター彼に手渡す。興奮したような小さな独り言が隣で聞こえていた。
カチッ――。
音と共に、少年の手元に光が灯る。しかし、闇に火は残らず消えた。
「あれ? 火つかないよ……」
少年が点灯を繰り返すも、たばこに赤い火は灯らない。
「吸いながら点けんだよ」
言ってやると、少年は困惑したようにこちらを見上げる。
「吸いながら?」
小首を傾げる姿が妙に可愛く思えた。所詮、ガキだ。
幸太は、火を灯しながら息を吸うよう彼に教えた。赤黒い光が灯ると同時に、少年がむせて咳き込む。
「おい……大丈夫か?」
「ごほっ……うん……大丈夫」
強がる台詞も、彼は背中を丸めて呻き声を漏らす。
「たばこって、大人だね」
まだ苦しそうに咳を一つして、少年は一先ずといった様子でたばこを持つ右の手を脇にやった。
「おまえ、名前は?」
幸太は興味で彼に聞いてみた。
「名前? りゅうだよ」
「りゅう? 格好いいじゃん。ちなみに、俺は幸太な」
「別に聞いてないよ?」
握ったドアノブが、そのまま外れたような気分を幸太は味わった。
「おまえ、生意気って言われない?」
「言われないよ。だって僕いい子だもん」
「あ……そ」
しかし、幸太はめげずに再び少年の心のドアに挑む。
「りゅうは何で死のうとか思ってるわけ?」
「お兄ちゃんってなかなか馴れ馴れしいしい人だね」
優しく開けようとしたドアに破壊衝動。それでも、幸太は自分に我慢を言い聞かせた。
「死ぬとか言うなよ……な?」
「お兄ちゃんは言ってもいいんだ?」
ああいえばこう言う、の堂々巡り。
「あのな、俺はもう十七なの。おまえみたいなドチビはさっさと帰って寝ろ」
「チビじゃないもん。小四だもん」
「小四……?」
幸太は隣に座る小四を見返した。年齢の割に、体が小さい印象だった。
「じゃ、宿題だ。さっさと帰って宿題やれよ」
「お兄ちゃんは宿題ないの?」
「宿題……?」
思わず口ごもった。
あるが、端からそんなものやる気はない……。
「あるんじゃん。お兄ちゃん、ずるだよ」
「うるせ、とにかく場所変えよう。こんなとこ居たんじゃ危ねえだろ? ほら、柵登れ」
幸太は背中の鉄柵を掴んで立ち上がった。りゅうにも同じようにと促す。しかし、りゅうは首を傾げてみせた。
「お兄ちゃん、死にに来たんじゃないの?」
幸太はパンチを食らった思いをした。答えられずにいると、しばらく見つめていたりゅうが「あっ」と声を出した。
「もしかしてお兄ちゃんも僕と同じ?」
少年が、言う。
「死のうと思ってるけど怖くて飛び降りれないんでしょ」
「馬鹿言ってんじゃねーよ」
幸太はすぐさま言い返した。
「俺はおまえが帰った後で飛び降りんだよ。邪魔だしさっさと帰れ」
本当は、りゅうの言葉が適確に胸に刺さっていた。目の当たりにした。死ぬのはおろか、足が竦んでいた。
死にたいのに、死ぬのが怖い。飛び降りることなど、できそうにないと気づいていた。
「死ぬのはどうしてこんなにも怖いのか……」
りゅうはそう言って、鉄柵をすり抜けた。金網に大穴が空いていたらしく、そこを通り抜けたらしい。幸太はそれを知らなかった。
「お兄ちゃんもこっから通った方が安全だよ?」
安全。
嫌に心に引っ掛かった。何だか癪に思い、幸太はわざわざ柵をよじ登る。回り込むともう落ちる心配はなかった。
柵の中の、安全地帯。景色がさっきとは違って見えた。安全であるか、その保証がないかで大きく違ったのかもしれない。幸太はそんなことを思いながら、
「なあ……」
と、再び少年に声を掛けた。返事はなかった。見回しても居ない。いつの間にか、少年は帰ってしまっていた。
本気で死ぬ気だったのか。妙な子供を、何事もなく追い返すことができたことで安堵を覚える。
そうして、幸太は真上の空を見た。星も月もない地味な空だと思った。