【第3回】第二章 変化といくつかの引き金 ―(1) | マイナビブックス

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アルツハイマーの夫を与えられた妻の心の記録

【第3回】第二章 変化といくつかの引き金 ―(1)

2016.08.12 | 岩井智子

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ある出来事

 

 アルツハイマーになる要因は、あとから考えればいくつかは考えられるが、はたしてそれが正しいかどうかは分からない。何しろ原因の分からない病気なのであるから。しかし、私自身の推測によるものとしか言えないが、いくつかの要因が考えられ、それにともなって彼の中に変化が見られたことは事実である。そのいくつかを述べてみよう。

 先ず考えられるのは、息子が大学院の博士課程受験に不合格だったことである。夫にとって「不合格」ということは考えられなかったのだ。「来年はほかの大学も受けろ」と言ったことからみてもそれがうかがわれる。

 息子は、大学の時には文学部でマスコミュニケーションを学んでいた。それが大学院からほかの大学の法学部に変わったのである。今までとは専門違いの学部である。息子にしてみれば、修士論文と博士課程受験の両立がむずかしいことはわかりきっていた。おのずと論文にウエイトをおいたのだと思う。

 この「不合格」は、失敗をしないように自分の道を歩み続け「石橋をたたいても渡らない人」と恩師が評したような夫にとって、かなりのショックであったのではないかと察しがつく。

 その翌年(一九九五年)である。彼にアルツハイマーの宣告が下されたのは。

 息子は次の年には他大学にも、出身校の博士課程にも合格することができた。出身校の合格発表を待つ時、父親のアルツハイマーをすでに知っていた息子は、他大学の入学金をおさめずに切り捨て、出身校一本にしぼってその発表を待った。父親の長期にわたるであろう闘病生活を考えた息子なりの思いであったが、父親は打つべき布石は打つのが当然であり、「無駄になってもいいから入学金はおさめておけ」と、親として精一杯の思いを示していた。この二年間の心労は言葉にはしなかったが、父親にとっては大きかったに違いない。

 しかし、この一年おくれての入学は、息子に大学推薦の留学というチャンスをもたらした。もし前の年に入学していたのなら、他の人が推薦されていただろう。人生、何が吉と出るかは分からない。与えられたものをどう受け止めていくかによって、人生は変わるものである。

 

恩師の死

 

 夫の生涯を語る時、彼の人生を決定づけた三人の師のことを語らずして終えることができない。

 一人は大学時代の師、三井浩先生である。戦時中に中学時代をすごした夫の語学力(英語、ドイツ語共に)を徹底的にやり直しをさせ、哲学に関しても哲学辞典を基にノートを作らせ、夏休み毎日先生の前で学習させられたのである。寝る間もないほどの予習、復習の毎日であったようだが、先生は毎日彼に付き合われ、彼を学究者として鍛え上げ、その基礎をしっかりと作り上げてくださった。三井先生の広く深い学識と鋭い洞察力に、私達は恐れを感じたものである。いいかげんな言動は決して許されなかった。「馬鹿者!」の一喝は場所を選ばずとんできた。先生の前に立っただけですべてを見抜かれてしまう。その三井先生の死は、彼にとって自分の両親の死より悲しみは大きかったと思う。

 後日、同門の教え子が「岩井先生があのように慟哭されたのを見たことがありません」と語っていた言葉に、彼の三井先生への思いを知ることが出来る。しかし、彼はその悲しみを乗り越えることができた。

 当時の彼は学究者としても、教育者としても、年齢的に一番充実していた頃で、肉体的にも健康であり、社会的にも男性として最も生きがいのある日々を送っていた時期でもあった。これ等のことは、彼が悲しみを乗り越えるのに充分の強さと力とをもたらしていたと思う。

 しかし、それから十数年後に迎えねばならなかった二人の恩師の死は彼の心に大きな影を落とした。

 関西で学んだ時代に彼は、二人の偉大な師にめぐり会っている。一人は大学院の博士課程で指導を受けた片山正直先生である。この先生もまた、厳しさにおいては実に徹底していておられた。私が聴講生として先生の演習に出させていただいた時、学生の一人が訳すのにちょっとでもつまずくと、待ったなしに「結構です」の先生の声が飛んできて続きは先生がさっと訳しはじめる。彼が演習の前日の夜まで、完璧に訳せるように、机に向かっていた意味がわかった。私は大学、大学院を通じてこれほど厳しい演習を身をもって体験したのははじめてであった。

 このように厳しい先生だが、彼の博士論文の時には夏休みに、箱根の宿に彼を呼び寄せ、泊りがけで論文指導をしてくださったり、先生との共著の出版の際には、わが家に泊り込まれて細かく指導してくださっていた。家中に響く片山先生の叱責は、あの三井先生をなつかしく思い出させる同じものだった。その声を聞きながら、彼のことを何と幸せな人だろうと思ったものである。

「哲学はセンスです」と、夫が大学へ出かけた後、先生と私と二人だけの朝食の席で言われた言葉を私は忘れられない。阪神大震災の前年に先生は亡くなられた。関西の教会で行われた葬儀に私達は出席したが、その時彼の心に何が起き、何を思ったかを私は知らない。しかしその翌年、彼はもう一人の恩師を亡くした。

 私たちが学生時代を過ごした京都での七年間(一九五五年~一九六二年)、教会生活を送った北白川教会の牧師奥田成孝先生である。私達の結婚の司式者でもあり、娘も先生の司式のもとに結婚式をあげている。先生は京大で法律を学ばれたが、卒業後法律の道を捨てて牧師になられた方である。森明(父上は森有礼である)が京大のキリスト者の学生のために作られた共助会を奥田先生に託されたのである。先生は森明の意思をつがれ京都にとどまり、その生涯を牧師として学生の信仰のために捧げられた。

 この奥田先生の教会で私達は七年間の教会生活を送ったが、彼はこの奥田先生を通じてキリスト教信仰の確信を得たと言えよう。幼い頃よりクリスチャンホームで育った彼ではあったが、この奥田先生との出会いが、彼の信仰生活をゆるぎないものとして育て上げた。東京に職を得てからも、たびたび京都に先生をお訪ねした。先生と銀閣寺へ向かう道を散歩している時、先生はこんなことを言われた。

「義人さん(先生はいつもこう呼ばれていた)僕の葬儀の時の話は頼むよ」

 先生と彼との間のこの約束は二人だけのものであり、しかも彼は共助会の一員とはならずじまいで京都を去ってしまったので、先生の葬儀でこの約束は果されなかった。しかし先生と彼との間には師と弟子という関係ではなく、信仰者同士としてのつながりがあったように思う。

 前夜式(仏教でいう通夜)から帰宅した彼に、いつになく疲労がみられた。次の日、「葬儀には出られない、医者に行く」と言い出した。医者の診たところではどこにも異常は見られなかったが、とうとう葬儀には出席せず、私と息子がかわりに出席した。

 この日からである。彼の精神と肉体のバランスが崩れだしたのは。少なくとも私にはそう見えた。

 かくして彼のアルツハイマーは静かに静かにその姿を現しはじめた。

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