【第2回】第一章  病がやってきた ―(2) | マイナビブックス

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アルツハイマーの夫を与えられた妻の心の記録

【第2回】第一章  病がやってきた ―(2)

2016.08.05 | 岩井智子

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医者の上手な言葉

 

 MRIも撮り終え、診察もすませた医師の最初の言葉が、実にユニークであった。

「岩井先生(彼のことを大学教授だったのでこう呼んで下さった)、脳の使い過ぎだわ。脳は使えば使うほどよくなるっていうのは嘘なんですよ。脳も疲れるの。先生みたいに左ばっかり(哲学が専門)使っているとすり減ってくるの。そんな時は右を使うようにするのよ。僕なんかもう頭をあまり使わないようにしているんですよ」そばでこれを聞いていた私は少し嬉しくなった。

「脳も疲れるんだ、やっぱり。あまり使いすぎちゃいけないんだ」私にとっては実に有り難いお話である。この時より「あんまり勉強ばかりしたからよ。今は少し休まなきゃね」と軽く話せるようになった。 医師は続けて言われた。

「じゃ少しお薬の助けを借りてもとにもどりましょうよ。それと先生、わたしのような若僧より、すぐ近くにある老人のための病院の院長を紹介しましょう。京大からいらした良い精神科の先生で、僕なんか会っただけで全部見透かされちゃうんですよ。でも精神科というのはおいやですか?」と、ちゃんと本人の意思を尊重しているぞということを感じさせる上手な言い方に感服したのだった。夫は、一日も早くすっきりしたいという気持ちが強かったのと、自分も学究者であるという自負から、精神科にこだわることをしなかったのには助けられた。

 これでワンステップはクリアした。しかしこの時私はまだ先生の言われるように薬の助けを借り、治療すれば良くなるものだと思い込んでいた。人間とはかくも物事を甘く考える人種なのである。

 こうして二週間に一度の通院と薬の助けを借り、大学の講義にも復帰することが出来た。ただ違ったのは、いままで週二日の習志野校舎での講義をするためにホテルに泊まっていたのをやめ、朝五時半に町田市の家を出てロマンスカーを利用し、習志野まで出かけることで無事大学を続けられるようになったことだ。やっと我が家に平安が戻った。

 

宣告

 

 紹介していただいた精神科の院長先生は京大からいらした方で、大学院時代を京都で過ごした夫にとっては親近感もあり、お互い学究者として話し合える場を与えていただいたようだ。先生のお人柄もあって、二人の間には実におだやかな良き時の流れを感じた。

 二週間に一度の通院がはじまると、不思議なことに、彼は先生と会うのを楽しみにするようになった。

 こうして、もとの平安な日が我が家に戻ってきたかのようにみえた。

 そんなある日、たまたま友人が行けなくなった音楽会の切符が手に入った。私にとって久しぶりの夜の外出である。ところがその朝、「胸が苦しい」と言い出す。午前中内科に行ったが、どこにも異常はない。

「今日は、私音楽会へ行くのはやめて家にいますね」

「そうしてもらえるとありがたい」と彼の答え。

 しかたなく音楽会行きをとりやめて一件落着。朝のあの「胸が苦しい」はどこへやら、ケロッとしているのだ。もっと腹が立ったのは、夕食の時にその行けなかった音楽会をN響アワーで実況していた。それを聴きながら、

「あら、私が行くはずだった音楽会だわ。この曲が聴きたかったのに残念。どこも悪くなかったのなら、行けばよかった」と言う私の話しかけに何のリアクションもなかったことだ。「すまなかったな」でも何でもない、まったく知らんふりをしている。

「いつもの彼らしくないぞ」とふと不安がよぎった。まさか、この「胸が苦しい」が、夜私が家にいないことへの不安からおきていようとは思ってもみなかったが、何かおかしいと気になる。さっそく翌日先生に電話を入れ、昨日の顛末を話した。それを聞かれた先生は受話器越しにこう言われた。

「奥さん、実は腹をくくってほしい。ご主人はアルツハイマーです」

 そのとき私は先生と何を話したかはまったく記憶にないのである。しかし受話器を置いてから、「先生に会って、ちゃんと話を聞かなければいけない」と、すぐに思った。

 意外と私は冷静だった。

「これは本当に腹をくくらねば。やらなければならないことが山ほどあるぞ」と自分に言い聞かせた。まず先生に会って、じかにもう一度話しを聞こう。それから今後のことを考えようと、とっさに思った。そして、私一人のアポイントをとった。

 これほどの重大なことを、電話の会話でやってのけた先生の業に私は感服した。その日までいくらでも「宣告」する場はあったはずである。それをあえてしなかったのは、さすが精神科医である。

 いとも簡単に一言、

「腹をくくってください。ご主人の病名はアルツハイマーです。」

 面と向かって言われるよりも、電話というクッションが私を冷静にさせたのである。

 これがもし、癌の宣告だとしたなら、電話というわけにはいかないだろう。癌の宣告には「余命いくばくか」という言葉と「治るか、あるいは治らないかもしれない」ということが続いてくる。しかし癌は「治る」という可能性も残されているのだ。

 しかしこのアルツハイマーには「余命いくばく」ではなく、長い道のりが、しかも下り坂の道のりが確約されたことになる。

 まさに「腹をくくる」なのである。もうじたばたはできない。一九九五年十一月のことである。

 この電話での宣告は、実にありがたい方法であったと今でも思っている。もちろんこの方法は、ここ数カ月「私」という人間に接してこられた精神科医の私に対する、もっとも適切な宣告の仕方であったのだろう。

 

そのとき私はどうしたか

 

 電話でアルツハイマーを宣告された私の頭の中を、何かが目まぐるしく動き回っていた。今私は何をしたらいいのか、何をなすべきなのか。その様なことが頭の中でぐるぐるとまわっていた。

 宣告を受けただけで、その他のことは何も聞いてはいない。病状についても私は問いただしてはいないのだ。一方的にアルツハイマーと聞いただけである。

 まず、先生に会ってくわしく説明を聞こう。現在の病状はどんなもので、これから先、この病気はどうなっていくのか、私はまるっきり知らないではないか。それを知ることによって、これから私が何をどうすべきかを考える必要がある。とっさに私はこんなことを考えたのだ。不思議なことに、誰かに話してみようとか、娘や息子に相談してみようということも考えなかった。おそらく結婚してからの四十数年間、我が家ではなにごとも彼に相談し、話し合い、最後の決定はいつも彼にゆだねてきた。今この我が家の歴史にピリオドが打たれたことで、すべての責任は私が負わなければならなくなったと自覚したからだと思う。

 これが先生の言われた「腹をくくってください」であり、文字通りの「腹をくくる」だったのである。

 私は以前から、彼は八十歳を過ぎたら遅かれ早かれ、痴呆の症状から逃れられない人だろうと思っていた。まじめで几帳面な彼の性格からして、それは起こり得るであろうと。七歳年上の彼のそうした老後は、当然私が見るのがつとめであろうくらいに漠然と思ってはいた。しかし、六十七歳でそれがやってこようとは考えてもいなかった。

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