ハチの生まれ変わり①
神仏が、人間や動物に化身してこの世に現われる話は物語にもよく出てくる。『鶴の恩返し』などもその一つで、別に不思議がることではないのかもしれない。
長年、飼っていた愛犬ハチも、あの世に逝っても守護霊として存在するのだろうか。こちらが忘れかけていても「ここに、ちゃんといるよ」と存在を確認させられるような出来事に私は何度も遭遇している。それとも、それは気のせいで、こちらが勝手にそう思い込んでいるだけなのだろうか。
最晩年のハチが私と南九州の家に帰った時、山に入り逝ってしまってから三年になる。
臨終間近い老犬が、習性として死に際に姿を隠すため、トボトボと覚束ない足取りで山に入って行く、マタギと猟犬の生活をドラマ化した映画を、最近、テレビで見たが、まさにハチの最期の再現のようで目が画面に釘づけになった。
その後も、私は南九州を定期的に訪れているが、ハチの命日のある夏には、冷たい体温の可愛いい小動物に出合うようになった。それらの生き物は、ひんやりした山中の土壌を連想させ、まさに、そこから生まれ出てきたことを告げているかのように思われた。
逝ってから一年ぐらい、ハチと別れた直後の冬や、夏には、どこを見ても、何を見てもハチのことを思い出さない物はないほどだった。それまでは、いつもハチと一緒の旅であり、暮らしだったのだから無理もないが、夏に帰った時は、それまで敷地の境に生えているだけだった山百合が、数輪、見事に咲いて私を迎えてくれた。
動物の成仏は早いというが、人間なら一年忌である。犬に関わりのない人には滑稽に映るかもしれないが、気持ちの区切りとして一度だけでも、この地で供養をしてやりたかった。
それで、気になっていた亡き友の仏前にお線香をあげに町なかにあるお寺まで行ったついでに――どちらがついでだか逆のような気もするが――住職に事情を話し、お経をあげて貰った。そのせいもあってか、十日余りの滞在の間、落ち着いた気分で日々を過ごせた。
帰る日が迫り、荷物の片付けや、小屋の掃除を始めた時だった。
風呂場の北側の窓を開け、窓枠を拭こうとすると、誰かに見詰められているような微かな視線を感じ、木枠の端に目をやった。すると、レールの外側の窓枠の端に、生まれて間もないと思われる小さな雨蛙がジッとこちらを見ているではないか。
枠木に似たわかりにくい保護色の茶褐色で、いつまでも四つ足を踏ん張ってジッと動かずにいた。日差しを避け、涼しさと、湿り具合が快適でそこにいただけかもしれないが、木の葉や、土の色と見分けのつかない保護色の赤茶の虎毛や、敏捷だった四つ足のハチのことが思い出され、小さなこの雨蛙に私は今までにない特別ないとおしさを感じ、「ずっと達者でね」と別れを告げ帰途についたのだった。
二年目は、冬に行けなくて春先に行った。
球根を植えて置いた水仙が白い一重の花を房状につけ、七、八本が一列になり夕闇の中で風に揺れていた。
夏には風呂場の窓を開けても前年の雨蛙と再会することはなかったが、その年は人間流にいえばハチの三年忌にあたるので、ハチが最後に私と過ごした場所辺りに線香をあげた。