イスラム実見
国際交流基金と二年間(その後一年三か月延長)の契約を結び、パキスタン最大の都市、カラチに赴任。
教える場所は、在カラチ日本国総領事館広報文化センター日本語普及講座(長い!)だ。教室は、領事館内にある。
住まいは、カラチ市内の住宅街に借りた。
さて、そこで、直接イスラムを体験することになる。
早朝――とつぜん、拡声器の大音声に夢を破られる。
(なにごと?)
ねぼけまなこで身がまえる。
「アッラーフ・アクバル・・・・アッラーフ・アクバル・・・・」
同じことばがくり返される。
(あっ、アザーンだ・・・・)
アザーンとは、モスク(イスラム教礼拝堂)から信者たちに発せられる、礼拝への呼びかけ。
(しまった、こんな近くにモスクがあったのか)
後悔しても、時すでにおそし。
以後、一日五回の礼拝時に、このアザーンに見舞われることになる。
「まいったな・・・・」
アザーンの章句は、世界中どこへ行ってもアラビア語で、内容もほぼ同じ。
「アッラーフ・アクバル(アラーは偉大なり)」
に始まり、
「アシュハド・アン・ラー・イラーハ・イラーッラー(アラーの他に神はなしと私は証言する)」
「アシュハド・アンナ・ムハンマダン・ラスールッラー(マホメットは神の使徒なりと私は証言する)」
「ハイヤー・アラッサラー(いざや礼拝に来たれ)」
と続く。
「ハイヤー・アラルファラー(いざや成功のために来たれ)」
「アッサラート・ハイルン・ミナン・ナウム(礼拝は睡眠にまさる)」
礼拝への動機づけも、ちゃんと入っている。さいごに、
「アッラーフ・アクバル(アラーは偉大なり)」
「ラー・イラーハ・イラーッラー(アラーの他に神はなし)」
で締められる。
これらを、独特の節まわしで格調高くくり返されると、信者でないわたしたちでも、一種、催眠状態に引き込まれる。とくに、夕暮れどきなどは、残照などを背景に、いちだんと胸に沁み入ってくる。
慣れとはおそろしいもので、初めはとび上がっていたアザーンにも、いつのまにか馴染(なじ)んでくる。その内、だんだん耳に快くさえなってくる・・・・。
それにしても、驚かされるのは、イスラム教と信者との距離だ。
とにかく、どこに住んでいようと、宗教のほうから四六時中呼びかけてくる。迫ってくる。逃げようがない。
モスクは、大小さまざまだが、その数は、日本の社寺の比ではなかろう。コンビニに匹敵する、といったら、語弊があるだろうか・・・・生活の中に宗教がある、というよりも、宗教の中に生活がある。
アザーンをきくと、信者たちはモスクに向かう。
ただし、だれもがみな毎回モスクに行くか、というと、そういうわけではない。
まず、女性は基本的に家庭で祈ることになっている。大モスクの中には、女性専用の祈祷場所を設けているところもあるが、例外的。イスラム教は男性優先、といわれるゆえん。
病気中とか、旅行中とか、“よんどころない”事情のある人は、モスクでない場所で祈ってもよい。 “よんどころない”は拡大解釈されて、サボる(?)連中も当然出てくる。
見ていると、モスクがいちばん盛況を呈するのは金曜日だ。キリスト教の日曜礼拝に相当するから、ほかの日の数倍、数十倍の信者がやってくる。
モスクでは――信徒は、礼拝する前に身を清める。
日本でも、神社や仏閣に参拝するとき手水(ちょうず)をつかうが、イスラムではもっと丁寧だ。身体で外部に露出している部分すべてを洗う。つまり、顔、首、耳、手、足・・・・口を漱ぎもする。
清潔を重んじる宗教なのだ。
礼拝堂に入ると、初めての人は少し面食らうかもしれない。内部がとてもシンプルで、祭壇や偶像などが一切ないのだ。あるのは、メッカの方角を示す壁と、祈りを捧げる空間ばかり。
大モスクでは、金曜日の正午礼拝に、ハティーブ(説教師)による説教があり、イマーム(導師)の指導の下に礼拝を行う。
ちなみに、イスラムには、キリスト教の牧師とか、仏教の僧侶に相当する、職業的宗教者はいない。
祈りは、
「神は偉大なり」
と唱えながら、決められた手順で、両手をうごかし、おじぎをし、ひざまづき、平伏する。動作は、くり返しと変化に富んでいる。
神を讃え、神からの祝福を祈る。
その一心に祈る姿には、近づきがたいものがある。敬虔、ということばを、これほど体現したかたちも少ないだろう。宗旨を離れて、胸を打たれずにはいられない。
こういう姿を目の当たりにしていると、
「かれらは、こころ正しく、平和を愛する人たちにちがいない」
本能的にそう感じる。
じっさいのかれらも、まことに人間的な人びとだ。日本語講座に来る学生たち、領事館で働く人たち、わたしの自宅の使用人など、みなそうだ。
利害関係のない、町の人びとも、恐ろしいところなどまったく感じられない。
ほかの外国人たち――といっても、わたしがよく知るのは、アメリカ人と中国人ぐらいだが――と比べても、感覚的に大きなちがいは感じない。人間としてふつうに行動し、ユーモアも解する。
第一感、イスラムは恐くないのである。