【第3回】第一章 イスラムは恐くない ―(3) | マイナビブックス

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日本語老教師、イスラムへ往く

【第3回】第一章 イスラムは恐くない ―(3)

2015.01.13 | 半因坊楽庵

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イスラム実見

 

 国際交流基金と二年間(その後一年三か月延長)の契約を結び、パキスタン最大の都市、カラチに赴任。

 教える場所は、在カラチ日本国総領事館広報文化センター日本語普及講座(長い!)だ。教室は、領事館内にある。

 住まいは、カラチ市内の住宅街に借りた。

 さて、そこで、直接イスラムを体験することになる。

 早朝――とつぜん、拡声器の大音声に夢を破られる。

(なにごと?)

 ねぼけまなこで身がまえる。

「アッラーフ・アクバル・・・・アッラーフ・アクバル・・・・」

 同じことばがくり返される。

(あっ、アザーンだ・・・・)

 アザーンとは、モスク(イスラム教礼拝堂)から信者たちに発せられる、礼拝への呼びかけ。

(しまった、こんな近くにモスクがあったのか)

 後悔しても、時すでにおそし。

 以後、一日五回の礼拝時に、このアザーンに見舞われることになる。

「まいったな・・・・」

 アザーンの章句は、世界中どこへ行ってもアラビア語で、内容もほぼ同じ。

「アッラーフ・アクバル(アラーは偉大なり)」

に始まり、

「アシュハド・アン・ラー・イラーハ・イラーッラー(アラーの他に神はなしと私は証言する)」

「アシュハド・アンナ・ムハンマダン・ラスールッラー(マホメットは神の使徒なりと私は証言する)」

「ハイヤー・アラッサラー(いざや礼拝に来たれ)」

と続く。

「ハイヤー・アラルファラー(いざや成功のために来たれ)」

「アッサラート・ハイルン・ミナン・ナウム(礼拝は睡眠にまさる)」

 礼拝への動機づけも、ちゃんと入っている。さいごに、

「アッラーフ・アクバル(アラーは偉大なり)」

「ラー・イラーハ・イラーッラー(アラーの他に神はなし)」

で締められる。

 これらを、独特の節まわしで格調高くくり返されると、信者でないわたしたちでも、一種、催眠状態に引き込まれる。とくに、夕暮れどきなどは、残照などを背景に、いちだんと胸に沁み入ってくる。

 慣れとはおそろしいもので、初めはとび上がっていたアザーンにも、いつのまにか馴染(なじ)んでくる。その内、だんだん耳に快くさえなってくる・・・・。

 それにしても、驚かされるのは、イスラム教と信者との距離だ。

 とにかく、どこに住んでいようと、宗教のほうから四六時中呼びかけてくる。迫ってくる。逃げようがない。

 モスクは、大小さまざまだが、その数は、日本の社寺の比ではなかろう。コンビニに匹敵する、といったら、語弊があるだろうか・・・・生活の中に宗教がある、というよりも、宗教の中に生活がある。

 アザーンをきくと、信者たちはモスクに向かう。

 ただし、だれもがみな毎回モスクに行くか、というと、そういうわけではない。

 まず、女性は基本的に家庭で祈ることになっている。大モスクの中には、女性専用の祈祷場所を設けているところもあるが、例外的。イスラム教は男性優先、といわれるゆえん。

 病気中とか、旅行中とか、“よんどころない”事情のある人は、モスクでない場所で祈ってもよい。 “よんどころない”は拡大解釈されて、サボる(?)連中も当然出てくる。

 見ていると、モスクがいちばん盛況を呈するのは金曜日だ。キリスト教の日曜礼拝に相当するから、ほかの日の数倍、数十倍の信者がやってくる。

 モスクでは――信徒は、礼拝する前に身を清める。

 日本でも、神社や仏閣に参拝するとき手水(ちょうず)をつかうが、イスラムではもっと丁寧だ。身体で外部に露出している部分すべてを洗う。つまり、顔、首、耳、手、足・・・・口を漱ぎもする。

 清潔を重んじる宗教なのだ。

 礼拝堂に入ると、初めての人は少し面食らうかもしれない。内部がとてもシンプルで、祭壇や偶像などが一切ないのだ。あるのは、メッカの方角を示す壁と、祈りを捧げる空間ばかり。

 大モスクでは、金曜日の正午礼拝に、ハティーブ(説教師)による説教があり、イマーム(導師)の指導の下に礼拝を行う。

 ちなみに、イスラムには、キリスト教の牧師とか、仏教の僧侶に相当する、職業的宗教者はいない。

 祈りは、

「神は偉大なり」

と唱えながら、決められた手順で、両手をうごかし、おじぎをし、ひざまづき、平伏する。動作は、くり返しと変化に富んでいる。

 神を讃え、神からの祝福を祈る。

 その一心に祈る姿には、近づきがたいものがある。敬虔、ということばを、これほど体現したかたちも少ないだろう。宗旨を離れて、胸を打たれずにはいられない。

 こういう姿を目の当たりにしていると、

「かれらは、こころ正しく、平和を愛する人たちにちがいない」

 本能的にそう感じる。

 じっさいのかれらも、まことに人間的な人びとだ。日本語講座に来る学生たち、領事館で働く人たち、わたしの自宅の使用人など、みなそうだ。

 利害関係のない、町の人びとも、恐ろしいところなどまったく感じられない。

 ほかの外国人たち――といっても、わたしがよく知るのは、アメリカ人と中国人ぐらいだが――と比べても、感覚的に大きなちがいは感じない。人間としてふつうに行動し、ユーモアも解する。

 第一感、イスラムは恐くないのである。