【第1回】第一章 イスラムは恐くない ―(1) | マイナビブックス

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日本語老教師、イスラムへ往く

【第1回】第一章 イスラムは恐くない ―(1)

2015.01.13 | 半因坊楽庵

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アメリカテロ事件

 

 アメリカで起こった、九・一一テロ(二〇〇一年)や、ボストンマラソン爆破テロ(二〇一三年)を見て、

「イスラムは恐い!」

と感じた人は少なくないだろう。

 日本人でもそうなのだから、身近で体験したアメリカ人は、強烈な恐怖に襲われたにちがいない。

 が、だからといって、いきなり、

「イスラム教徒は残虐だ」

「イスラム教徒は、テロ集団だ」

などと決めつけるのは、ちょっと乱暴だろう。

 もし日本人が、連合赤軍――少し古いが、日本にもそういうテロ集団がいた――を知った外国人から、

「日本人は恐い」

「日本人は残虐だ」

と言われたらどうだろう。

「冗談じゃない、ごく一部の過激派のシワザを、日本人全体に結びつけられては迷惑シゴク!」

と反論するにちがいない。

 イスラム教徒だって、似たような主張をしてもふしぎはあるまい。

「あれは、ごく一部の狂信的な連中がやったこと。わたしたちには関係がない」

 だが、アメリカ人は、それを認めるゆとりなど持ち合わせていないようだ。

「イスラム教徒がその信条に基づいてテロをやったのだから、あらゆるイスラム教徒にそういう要因が潜んでいるはず」

 そういう論理になる。

 九・一一テロ後、国際的イスラム系テロ組織、アルカーイダ(ウサマ・ビン・ラーディン指導)を首謀者と見なし、追及したのは、だから当然だった。

 アルカーイダをかくまっている、というので、アフガニスタン(国民の九十九パーセントがイスラム教徒)をテロ支援国家に指定し、“正義”の名のもとに侵攻したのも、その文脈上。のちにウサマ・ビン・ラーディンが犯行声明を出したこともあり、この辺りまではアメリカの正当性を――国際法上の論議はともかく――認めてもよかろう。

 だが、アメリカは、その論理をグングン拡大する。

 イラク(国民の九十五%がイスラム教徒)を独裁する、サダム・フセインを、ウサマ・ビン・ラーディンと同様の危険人物とみなし、イラクを“悪の枢軸国”と決めつける。大量破壊兵器保有を理由に、国連の決議を得られないまま、いわゆるイラク戦争を決行。結果、サダム・フセインは殺害したものの、カンジンの大量破壊兵器は見つからず、開戦の正当性に疑問が投げられた。

 しかし、そのことで、大統領ブッシュをはじめ、アメリカ人の多くが反省したか、というと、そんな様子はまったく見られない。

 このように、

「あいつは危険だ、気に食わん」

となれば、国連も国際法も屁(へ)のカッパ、大威張りでやりたいことをやるのがアメリカの本性らしい。

 国外でさえそうだから、国内に至っては想像に余りある。

 九・一一テロ以降、イスラム教徒に対する扱いは、移民審査、入国管理、その他あらゆる面できびしくなった。その圧迫は相当のものだったろうし、中には、はっきり「差別」といえる扱いもあったときく。

 そこへきて、今回のボストンマラソン爆破事件だ。

「それ見ろ、やっぱりイスラムだ!」

 犯人と目される人物がロシアからの移民、という意外性はあったものの、チェチェン出身でイスラム教徒、とくれば、“不信の論理”にピタリ当てはまる。アメリカ人は、一層そのイスラム観を固めてしまったにちがいない。

 固めることは固めたが・・・・そのイスラムが、そもそもなぜ自分たちに“刃向う”のか、アメリカ人は、実はよく分かっていないのではないか。

「なんだか知らないが、とつぜん狂犬のように噛みついてくる!ワケがわからない・・・・」

 戸惑いのほうが強いかもしれない。

 しかし、何事にも原因がある。イスラム事件を単に“狂犬病”で片づけたのでは、その本質を見失ってしまうだろう。

 わたしは、非常に根が深い、とおもっている。

 現象的には、九・一一事件は、過激集団アルカーイダのしわざ、ボストンマラソン事件は、アメリカ社会の冷遇にキレた移民の発作、と片づけることもできよう。だが、その奥深くに、歴史的イスラムの怨念、とでも呼ぶべきものを見逃してはなるまい。

 イスラム創生時や十字軍遠征時代までさかのぼらなくても、ここ百年ぐらいで証左は十分だ。

 たとえぱ、イスラエル建国やアフガニスタン紛争で、キリスト教国――イギリス、フランス、アメリカ、ロシアなど――がいかにイスラムを翻弄してきたか、あるいは、パレスチナ問題などでイスラムがどう扱われてきたか・・・・加害者側は“力は正義”と割り切っているだろうが、被害者側は怨念を積もらせている。それが、(忘れた側の)思いがけないタイミングと場所で噴出するのだ。

 その瞬間、被害者に転じた加害者は、イスラムを悪と断定し、危険視と嫌悪感を募らせる。それが、またイスラムを圧迫する。

 不幸な予言になってしまうが――この“負のサイクル”は、半永久的に続くだろう。

 あした、又どこかで、なにか大きな事件が起こってもふしぎはないのだ。