海外文芸はカクテルにたとえてもいい。ドライマティーニをバーテンダーにまかせるように、翻訳者に寄りかかってページを繰っていく以上。
十九世紀風「小説」の骨組みから逃れ、ストーリーに収束することもない、平板に見えながら実は入り組んだ日常、取り散らかった現実を生きる者のことばによって紡がれる作品とあれば、なおさら寄りかかりの度合いは増してくる。
三ヵ月前に別れた恋人をあてもなく待つ「僕」が久しぶりに会った友人は、三日前に細君が家を出て行ったところだと言う。友人に付き合い一緒に細君を待つうち、細君からは「僕」の方に電話が入り、「僕」を待つために彼女は家を出たと告げる。‥‥前半の流れを追っただけでも、複数の相の「待つ」があらわれる。人と人の在りようを映す「待つ」は、それぞれの感受性や思惑、行き違いによって、その意味合いは枝分かれし反響し合い、と同時に溶け合い重なり合ってもゆく‥‥。
植物園に併設された動物園、セーヌ河岸に繋留された川船、クリシー広場近くの街並を舞台に今日のパリ、思いがけない都市生活の断片を覗き見し、とりとめない「僕」のモノローグを受けて、読者はいつしか笑みを浮かべている自分を見出すだろう。ことばの織りなす揺らぎに身をゆだね、未整理と混乱の内にわれわれはたゆたうしかない存在なのだな、とあらためて感じ入りながら。
訳者あとがきに「緩急自在な文体の相似形を作るため、原文のピリオドと同じ位置に訳文の句点を置き、カンマには可能な範囲内で読点を対応させようとした」とある。これだけの制約を課して原文を読み込み、母語をまさぐり再構築したものであると知り、驚きを禁じ得ない。翻訳という営為の極北とでも言おうか‥‥。いずれにせよ、作者にとってもわれわれ読者にとっても、以て瞑すべしだろう。
極上のドライマティーニを差し出されたときのように。