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【第1回】「江戸」終焉の苦み――「坊っちゃん」

2015.06.18 | おおしま伸

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 親譲りの無分別で安請け合いばかりしている。「読書をめぐるコラムでも」と誘われ、特に断る理由もないしなんとかなるだろうととりあえず引き受ける。どうせなら誰にでも馴染み深いものから始めようなどと余計なことを思いつく。実力と胆力が伴わぬくせに、救いようのないお調子者があったもんだ。

 というわけで、あらためて「坊っちゃん」を読み直す。

 読むたびに、受ける印象や感想は大いに変わる。文章のテンポとリズムを楽しみながら、今回気になったのは、話者である「坊っちゃん」の自己規定の多さだった。無鉄砲、真っ直ぐ、淡泊から始まって、卑怯を嫌い、義侠心に生き、天衣無縫の正義派、これでもかこれでもかと自分の性格を述べ、行動様式を語り、価値観を披瀝する。好もしくも微笑ましいとも思う、しかし本音を言えばいささかうるさい、思考力の贅肉とでも言うべきものの一切ついていない剛直な人物とは、とても一緒に酒を呑む気になれないなと感じる。感じながら、これこそ漱石の整理づけようとした「江戸」ではないかと思い当たった。

 デフォルメされた江戸っ子気質、その盟友・山嵐は佐幕派として最後まで戦った会津育ち、幼少時代から支えてくれた下女の清が維新で零落した家の出と揃えば、坊っちゃんは「江戸」そのものを代表すると解釈するのが自然だ。とすればその対立軸としての赤シャツ、野だいこ、陰険・柔弱・卑劣・狡猾な悪役は、新時代の教養と権威、出身から「東京」を意味することになる。

 彼らを鉄拳制裁するシーンにいかに溜飲を下げようと、ここで強調しておきたいのは、敗北して逃げ出すのは坊っちゃん・山嵐の側であり、せいぜいイタチの最後っ屁、意趣返しをしか意味しないことだ。好悪・善悪は別として、江戸はもはや江戸として生きられない。東京の時代の到来なのだ。その苦さが読後に漂い出す。

 いま東京の時代の、終わりの始まりを意識しつつ。

 

■夏目漱石 岩波文庫他