【第2回】操車場って駅? | マイナビブックス

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 私は東灘操車場を命じられた。駅でも車掌区でもなく貨車を入れ換えするところである。東灘操車場は私だけであった。そして、当時は日本一の広さの吹田操車場へは20人が配属され、100人の生徒のうち約3分の2は操車場に配属された。車掌区へは一人も配属されなかった。

 配属が決まって、仲間どうしの会話のトーンがあきらかに下がっていた。あまりにも操車場に配属された人数の多さもそうだが、旅客駅に配属された人からも、

「家からかなり遠いところに配属された。通勤すると3時間以上かかってしまうので急きょ寮をたのんだ。」と表情は険しかった。

 研修最後の日は、いよいよ駅や操車場から助役等が迎えにきて本来の仕事が始まる。研修期間も給料はもらっていたが学生気分であった。

 東灘操車場の人事担当が吹田にある鉄道学園まで迎えにきてくれた。東灘操車場は東海道本線の灘駅から東へ徒歩約10分のところにある。そこまでの電車の中で担当の人は仕事内容等を説明してくれた。

「最初は貨車の入れ換えをする仕事ではなく、駅務掛をやってもらいます。雑用がほとんどで、単純な作業のくりかえしやで。」

と気軽な口調で話をしてくれた。入れ換え作業は危険な仕事であるというイメージがあったので、それを聞くと心の中で、

「貨車の入れ換えでなくてよかった。」

と、ほっとした気持ちになった。

 東灘操車場に着くと、駅長室や助役室がある建物が古くて傾いているようにも見えた。その建物の端に小さい部屋があり、「ここが駅務掛の部屋です。」と言われた。机と長いすが置いてあった。ほかに、お客さんがあったときなどにお茶を沸かすことができるように、かんたんな流し台とガスコンロが一つあった。

 

 

 そこで働いている駅務掛は、20歳代の人が二人と50歳代の人が一人だが、20歳代の一人が入れ換え作業のほうに行くので、私がそのあとに入ることになった。50歳代の人はあと1年で定年退職をするということだ。東灘操車場は構内作業掛がたくさんいるが、転てつ機を担当しているのは退職に近い年齢の人も多く、鉄道学園で教えてもらったとおり、労務職のままで国鉄の仕事を終えることになるのだ。

 次の日から、さっそく泊まり勤務が始まった。午前9時から次の日の午前9時までの24時間勤務である。もちろんその間には、数時間の休憩や4時間の仮眠があるが長い勤務時間である。3回は見習いで、ほとんどのことを先輩に教えてもらう。

 最初の仕事は昼食の支度である。まず、助役室に勤務している当直助役や庶務関係の人たち10人あまりのごはんを炊く。お米はそれぞれ缶等に入れて持ってきているので、そこから一人1合を枡で電気釜に入れていく。

「2杯入れといてね。」

 と、昼食に2合食べる食欲が大勢の助役もいる。できあがったごはんをどんぶりに入れるが、いっぺんに盛ってしまうので超大盛である。その助役は食べるのも速くて、流し込む感じだ。

「おかずがおいしいから、村山君もこのぐらい食べれるで。」

 と、満足な表情を見せてくれた。

 今は大食いを売り物にしている人が見せるためにそのときだけたくさん食べるが、この助役はいつも昼と晩に2合、朝に1合、つまり1日に5合のごはんを食べるので、その人たちより勝ると言えるのではないかと思う。

 おかずは配車掛が作ってくれるのでそれを手伝う。配車掛は、貨車をどのように連結して列車に仕立てていくかを決めていく。助役室の横に部屋があり、24時間勤務で7人が仕事をしているので、助役等を入れると20人近くのおかずを作る。

 私が入れ換え作業をする構内に配属されると自分がおかずを作るので、そこでの手伝いでノウハウをしっかりと学んでおくことになる。

 国鉄時代の現場はほとんどが男だったので、食事の支度も出来合いの物を買ってきたりして、おおざっぱにすますと思っていたけれど全然そうではなかった。味噌汁にしても、だしは市販のものは使わず、味噌も漬物屋さんで毎回量り売りしてもらう。はじめてここの味噌汁を食べたときの味は、今まで食べた食べ物の中で一番美味しかった。正直、家の味噌汁よりも10倍以上美味しかったので、1回に2合のごはんを食べられるわけが分かった。

 国鉄に入りたての人がやる仕事は『便所掃除』と相場が決まっていた。東灘操車場にもいくつかトイレがあるが、お客さん相手の職場ではなく職員専用であるので掃除は比較的楽であった。その点、旅客駅に行った同僚はとても苦労していた。

「汚れ方が尋常じゃないよ。たわしでこすってもなかなかとれないし、唇にもつくことがあるわ。」

 と苦慮している様子だ。しかし、それよりもっと苦労していることがあるという。それは『痰壷(たんつぼ)』の掃除だ。明治時代に決まった肺結核予防規則によって駅等に設置されているのだが、ほとんどがプラットホーム等に台はなくてそのまま置かれている。だから人の口から足元までの高さがあるので、痰壷の中央の穴にうまく痰が入ることはまずない。

「痰がへばりついていることがほとんどで、見ただけでぞっとする。便所掃除よりも、あれが一番いやや。」

 と身震いをしながら話してくれた。

 掃除は、駅長室・助役室・そして駅務の部屋もする。時間帯は午前2時に仮眠が終わって駅報を印刷してからなので、午前3時ぐらいからである。そのほうが誰もいないのでやりやすい。

 午前2時に起きてすぐの仕事が謄写版での駅報の印刷である。ロウ紙と呼ばれる特殊な原紙に臨時列車や工事計画等、重要なことが書いてあるのをきちんと印刷しなくてはならない 。刷るときは、網を取付け、その下に製版の終わった原紙を置き、ガラス板の上でインクを練り伸ばしたローラーを手前から転がしてインクを圧し着けて行くと、「透かし」部分だけインクが通過し、下に置いた用紙に印刷される。

 こんな印刷のしかたはテレビでは見たことがあったが、私が小学校に行っていた10年ほど前にもローラーではなく、もっと近代的な印刷の設備になっていたので驚いた。しかし、印刷に失敗すると運転をしているはずがない列車が走っていたりすると作業をするのにたいへんなことになる。また、運転や信号担当にも迷惑がかかり、ややもすると列車ダイヤが乱れる危険もあるので、ローラーを押す手にも力が入った。

 約1年その仕事をした。そして後輩が入ってきたので、構内作業掛を命じられた。いよいよ、動いている貨車に飛び乗ってブレーキをかけたり、貨車と貨車の間に入ってブレーキホースを外したりつないだりする仕事になる。

 最初のうちは貨車に飛び乗る仕事はしない。いちばん経験の少ない人は『切り屋』と呼ばれ、機関車が貨車を押して動かすと同時に連結器のピンを外す。そして機関車がブレーキをかけてもピンが外された先の貨車は動き続ける。これが突放と呼ばれる貨車の仕分け作業だ。

 東灘操車場には上りと下りに仕分け線がほぼ同じぐらいあり、それぞれに詰所がある。掛職の操車掛が1人、構内作業掛の転てつ担当が3人、構内作業掛の連結担当が5人の合計9人で1チームになっている。連結担当の5人の中でも経験の多い人が『制動長』と呼ばれ、いちばんえらい人だ。あまり貨車に飛び乗ったりしない。最初に突放してきた貨車に乗って、あとから来る貨車の連結両数を計算してどの辺に停めるかを決める。

 連結担当のあとの3人が、突放された貨車を時速5㎞以下で連結するようにブレーキをかけていく。連結される貨車の距離・連結両数・空車か積車か・仕分け線の勾配等をすばやく判断して適切なブレーキをかけていかなくてはならない。

 私がその仕事をさせてもらうようになって間がないころ、15両ぐらいの貨車が突放されてきて、いつものようにブレーキをかけたがあまり速度が落ちない。あわてて2両目の貨車のブレーキをかけたが、それでも速度はあまりかわらない。すぐに3両目もブレーキをかけたが、まだ速い。とうとう速度が落ちないまま、時速15㎞ぐらいで連結した。「ゴーン」という大きな音がした。連結というより、衝突という表現が正しいかも知れない。いつもはこの作業の仕分けは空車が多いのですぐに速度が落ちたが、この日はすべて積車だった。その思い込みがこういう結果になってしまったのだ。しかし、貨車の連結器は強い。貨車はどこも壊れていなかった。ただ、中に入っていた「ビール麦」が衝撃で扉のすき間からかなりこぼれてしまった。

「村山君、ちゃんと車票を見んといかんわ。空車か積車かで3倍ぐらい重さがちがうからな。それから、ビールやったらヘルメットで受けてあとでみんなで飲めるけど、麦はどうしようもないな。村山君、その麦から作るか。」

「わかりました。きちんと車票を見ます。ビールは造れないけど、こぼれたビール麦はきちんと掃除をしておきます。それを鉄板で焼いてビールの香りを出しましょうか。」

 先輩の温かみのある注意で、それ以降はブレーキ操作の大きなミスはしなかった。

 たいへんな事故もあった。私は上り線で仕分けを行っていたとき、下りの機関車の汽笛が乱打された。転てつ担当の先輩が、ちょっとした油断で貨車に腹部をひかれ亡くなられたのだ。即死状態だった。詰所に運ばれ、身体には毛布がかけられていたが顔の色がなかった。

 鉄道はレールと車輪の摩擦で動く。しかし、摩擦係数が低いので高速で走っていても静かだ。突放された貨車は速度も遅く、しかも惰性なので実に静かに走っている。レールの継ぎ目のところで音がするぐらいだ。亡くなられた原因のくわしいことは本人でないと分からないが、目撃していた人の話だと、線路をわたるとき左右をきちんと確認せずに横切り貨車にひかれたらしい。さっきまで一緒に仕事をしていた人がこんなことになるとは、信じられなかった。力がぬけてしまい仕事をする気もしなかった。しかし、貨物列車は動いているので仕事はまだ続けなくてはならない。

「気を引き締めて、しっかりやっていこな。」

 と言った助役の声も弱弱しかった。