【第1回】国鉄職員の募集がない | マイナビブックス

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 お金をもらって列車に乗れる。まさに一石二鳥である。そんないい仕事がほかにあるだろうか。物心がついた四歳頃から、自分の仕事は鉄道の乗務員に決めていた。

 高校を卒業したらすぐに国鉄に就職をすることを決めていた。昇職はすべて試験制なので、努力をすれば短期間で乗務員になれるのである。

 しかし、民間では大手企業でもたくさんの募集があるのに、国鉄職員採用の就職情報が高校に入ってこない。当時は「国鉄一家」と呼ばれていて、いわゆる「コネ」がないと就職できないと言われていた。実際は「局報」と呼ばれる国鉄内の新聞に職員採用の募集が載っていることが多く、一般には知らせることがあまりなかった。当時の国鉄は地域ブロックに分けて管理するために、全国に20あまりの総局や鉄道管理局が置かれていた。私の住んでいたところは大阪に近かったので、大阪鉄道管理局に入りたかった。

 高校の担任の先生に親戚が国鉄で仕事をしている人がいらっしゃったので聞いてもらったら、やはり一般には募集のお知らせをしていなくて、さらに内部でも募集をする人数が少なくなってきているとのことだった。それでもなんとかお願いしてみたら、数週間経って私の通っている高校へ国鉄職員募集の用紙を届けてくれた。

 私にとっては、まさに始発駅から列車がスタートを切った感じがした。ここまでは自分ではどうしようもないことが多かったが、ここからは自分しだい。「コネ」なんかに負けるわけにはいかない。

 採用の職種は「駅関係」と「施設関係」だった。「駅関係」とは、駅と車掌区で「施設関係」とは、保線区のことである。用紙には希望の職種を書く欄があった。当然、「駅関係」と記入した。

 採用試験には健康診断もあり、特に厳しいのは視力だ。列車の運行に携わる仕事だから当然のことだが、片方の目で一・〇以上なければならない。私は小学生のころから近視で、高校のころになると裸眼では〇・一あるかないかであった。矯正視力でもいいというのが救いだったが、片方の目で一.〇以上にするためには、かなりきつい眼鏡をかけなければならない。そのころは両目で〇.七ぐらいの眼鏡をかけていた。

 私の両親は国鉄に入ることに反対はしなかったもののあまり乗り気ではなかったので、眼鏡のことは言い出せなかった。自分で買う方法もあったが、そういうことをすると、両親はますます反対の方に向かう気がしたので、眼鏡は就職が決まってから目にあったものを買うことにした。

 ちょうど高校の友だちが、今まで使っていた眼鏡をやめてコンタクトレンズにしたと聞いていたので、それを借りることにした。今までにも自分の眼鏡が見えにくいときには授業中にも借りていたことがあったので、よく見えることはわかっていたのでラッキーだった。

 採用試験は大阪駅前の大阪鉄道管理局本局で行われた。そこの中庭に集合で、驚いたことに平日であるのにかかわらず、父親と思われる人がたくさんいるのである。母親は一人もいなかったので、おそらく父親が国鉄職員でその日(その時間)が休みや非番等で一緒に付き添って来た感じだ。父親が国鉄職員でも勤務等でそこに来られない人ももちろんいるので、自分以外の人はみんな父親が国鉄職員ではないかと思うほどだった。

 試験は筆記・面接・健康診断にわかれており、筆記試験は書けない箇所がなかったので自分としてはまあまあのできだったと思う。面接試験は

「君だったら工業高校なので、機械がたくさん使える保線区へ行くといいよ。」

 と面接官は保線区をすすめてくれたが

「私はお客さん相手の仕事がしたいんです。楽しんで列車に乗っていただけるように、笑顔いっぱいでやります。」

 と自分をアピールした。面接官は納得をしたような表情を見せてくれたので、手ごたえを感じた。健康診断では、友だちのおかげで矯正視力は、右が一・〇、左が一・二で通過することができた。

 待ちに待った合否通知が郵送で来た。合格と書いてあったが、臨時雇用員という但し書きがついていた。職員採用試験を受けたのに話がちがうと思ったけれど、不合格ではなかったので入ってしまえばなんとかなると自分に言い聞かせた。あとで先輩に、

「最初はみんな臨時雇用員だった。短い人で一年。長ければ三年やってやっと職員になれた人もいて、あまりにも臨時雇用員の期間が長いので、途中でやめてしまった人もいた。ぼくも2年あまり臨時雇用員で、やめようと思ったこともあったわ。」

 と話してくれた。

 駅等に配属される前に、三週間の研修がある。鉄道学園と呼ばれるところで行われ、運転士や車掌になるための研修もそこである。一般的な講義に使われる普通教室のほかに、本物の線路や車両等の設備がある。またどの研修も全寮制なので、宿泊棟もある。その研修でいちばん印象に残っているのが集団訓練だ。先生は現役の鉄道公安官で、

「さあ、今から全員鍛えたる。」

 と、いきなり渇を入れられ、運動場で敬礼のしかたを二時間、そして次の日には指差喚呼確認「右よし。左よし。」を二時間ぶっとおしで練習させられたことだ。敬礼の手の角度が難しい。「村山君、また手の先が上を向きすぎている。何度言ったら分かるんだ。」とよく注意をされた。指差喚呼確認は線路を渡るときだけではなく、道路を渡るときや日常の生活にも取り入れるように言われた。家のガスの元栓を閉めるときにも「ガスの元栓よし。」と言いながら指を指して確認すると間違いが少なくてすむ。私は今でもそこで学んだ指差喚呼確認を普段の生活にも行っている。

 駅関係の研修担当の先生は運輸科というところに所属している。運輸科は駅務科の先生の職員室である。何かの用事で運輸科の部屋に入るのが難しい。最初の授業は、およそ一時間かけて運輸科の部屋に入る、その入り方である。入り方が書いてあるプリントが一人一枚配られた。

 その内容は①ノックを二回する。②中から返事があってもなくてもドアを開ける。③「駅務科生徒は入ります。」と自分の所属を言う。④運輸科長(またはその代理)の前へ行くと、「本日の授業日報を持ってまいりました。村山茂です。」のように、用件と名前を言って礼をする。⑤日報にはんこを押してもらったりして用件が終わると、「ありがとうございました。」と言う。⑥出入り口まで進んでドアを開け、「駅務科生徒帰ります。」と言って出る。

 声が小さいときはやり直しになる。私も一度だけ運輸科の部屋へ行く機会があった。その日の当番であった四人で授業日報を持っていったときだ。さきほどの内容④の運輸科長の前へ行って、当番代表の人が「本日の授業日報を持ってまいりました。」のあとに一人ずつ名前を言うが、四人のうちの一人が緊張して蚊の鳴くような声しか出ない。担任の先生は当然やり直しを命じたが、そうなるとますます緊張して、さらに声が小さくなりふるえるようにもなってしまった。私をふくめあとの三人は、なんとかカバーしたいのだがどうすることもできなかった。それを見ていた運輸科長は、

「みんな友だち思いやな。その気持ちを現場に出たときに生かしてや。」

 と言ってもうやり直しをすることもなく、あっさりとはんこを押してくれた。

 運輸科の部屋から出ると、緊張していた友だちは

「すぐに帰ることができなくて、迷惑をかけてすまん。」

 と平謝りだったが、

「そんなことないよ。おけげで運輸科長からほめられたし、時間が長くなったぶんだけ運輸科の部屋を見渡せることができたわ。頭の堅そうな人ばかりだと思っていたけど、案外人情味を感じたわ。」

「村山君やるね。そんなとこ見ていたん。こんどもついてきて。」

「そうやな。こんどは学園長と話ししたいな。」

 四人とも研修期間に運輸科の部屋に行くことはもうなかったが、その話しが伝わったようで、寮では運輸科の部屋に入る練習がどの部屋でもほがらかな表情で行われていた。

 研修期間に大阪駅と高槻駅と二条駅へ行って、実際に勤務している助役から直接指導を受けた。二条駅は当時単線で、次の列車が来る少し前まで改札をしていないので、その間に駅事務所の中を見せてもらったり、改札口の中へ入れてもらって鋏をさわらせてもらった。当時の切符は硬券で下部右方に入鋏するのがほとんどだった。慣れないとその位置や力の入れ方が難しく、なかなかうまくできなかった。それでも本物の駅でやらせてもらうと、改札掛になったような気分になった。

 しかし、改札や出札の掛は「事務掛職」と呼ばれ、試験に合格しないとやらしてもらえない。「鉄道の仕事は、たとえ大学出でも切符切りから始める」と聞いたことがあるが、そうではなく、切符切りの仕事もやらしてもらえないのである。当時、国鉄に採用されてすぐは労務職と呼ばれて、旅客駅では駅務掛で掃除やお茶くみ等の雑用が主な仕事だ。操車場では構内作業掛で貨車の入れ換えで、ブレーキをかけたりブレーキホースをはずしたりつないだりする仕事をする。国鉄職員の約20%の人が掛職になれず労務職のままで定年退職をしているということも教えてもらった。

 研修の最後の日にはいよいよ配属先が発表される。私は研修を受けるまでは、駅というのはお客さんが列車に乗り降りするための、いわゆる旅客駅だけが駅だと思っていたが、駅という名前のつかない操車場や信号場も駅に属することを教えてもらった。研修が終わる日が近づくにつれて、仲間どうしの会話も「旅客駅に行けるかなあ。」という話題が多くなった。