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ゴルフのおかげで、旅、友、嬉し涙 三の旅 故郷 ~寺で祖国を念じるテラベイネン~

【第3回】自分の出生地へ戻ってみよう ~仙塩/夏泊~(1)

2017.04.17 | 鈴木康之

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 転勤を余儀なくされるサラリーマンの子供には、出生地が故郷にならない人が少なくないだろう。景色の記憶すらなく、その地を訪ねてもいないということになりやすい。しかし、人間が「オギャー」の一声でこの世の魂となった場所であり、初めて空気を吸い込んだ土地である。そこに何かあるはずである。

 私の父はいまのJR、国鉄の人間で、仙台、盛岡、青森、秋田の鉄道局を渡り歩いた。5人兄弟はいずれもそのどこかで生まれた。末っ子の私は秋田生まれである。私が3歳の時に父は東京の本省勤務となり、一家は上京した。私の一番古い記憶は、子供用のスキー板にくくり付けたみかん箱に乗せられて、家の前の道の雪の斜面を滑り下りている自分である。親に聞いたら、確かにそういう遊びをしたと言っていた。

 

 

 還暦を迎えた年、60年ぶりであることに意味づけをして、その地に立ってみたいと思った。もちろん、酒とゴルフが欠かせない私とワイフのことである、新幹線か飛行機で行って帰ってくる旅であろうはずはない。

 歳のせいだろう、20万キロ乗った愛車ボルボ240の硬さに疲れを感じるようになっていた。ゴルフの帰りのたった1時間の間に眠気が忍び寄ってきて困るようになった。A級ライセンサーの友人がふだん乗るならこれが世界一と言って、クラウンに乗っていた。私の世代の者は「いつかはクラウンに」という広告コピーを知っている。私もクラウンに乗りかえてみた。ゴルフの帰りにまったく眠気が来ないのには驚いた。これで東北を一週してみようと企てた。

 5泊7日の夏休みをとった。仙台・塩釜で魚とゴルフ、青森でねぶた祭りとゴルフ、秋田で出生地と竿灯祭り、帰路、角館、平泉を観光して、羽鳥湖で一息入れてゴルフしてから東京へ、というルートである。

 

ラウンド後、ビールではなく一口の美酒

 

 昼過ぎに東京を発って仙台へ。ここには旧知の森田茂さんがいた。「仙台へ行きますので」の電話を森田さんもたいそう喜んでくれた。それまでに仙台周辺でゴルフをする機会がなかった。「東北の地に初めてティアップするのならまずここをおいてほかにありませんよ」と言って仙塩ゴルフ倶楽部を推薦し、案内役をしてくれることになった。

 そこで仙台市内ではなく、塩釜港に宿をとり、前夜はかねてチェックしておいた港の寿司屋で飲んだ。恥ずかしながら仙塩を私はよく知らなかった。出掛ける前に下調べすると、私が生まれるより2年前の昭和10年開場で、赤星四郎さんの作、なぜか9ホールズのままで今日まで、とある。これだけで9ホールズ好きの私の心はざわめいた。

 寿司屋のカウンターには私とワイフの2人だけだった。「明日は仙塩でゴルフだ」と言うと、店の人たちは「ああ、浦霞」と言った。土地の人たちはゴルフ場を酒の銘柄で呼ぶのだった。酒蔵のほうとゴルフ場のほうの両方を見事な信念と美学を持って三代続けている経営者一族を尊敬しているからである。

 浦霞は酒好きのワイフのお気に入りのひとつで、わが家ではもうかれこれ20年以上馴染んでいる。

 さて、翌朝、森田茂さんはクラブハウスの前で待っていてくれた。何年ぶりかでお会いした。森田さんは、大手企業を定年退職した後、仙台の近くのさるゴルフ場の支配人を務めた。そこで一般的ゴルファーのマナーの低さに驚き、悩んだ。そこで自前でエチケット・ブックを作ったが、これが評判になり、全国のゴルフ場へ納める仕事を始めることになった。

 自宅に「エチケット・マナーを守る会」の看板を出した。森田さんの手もとに私の最初のマナー本、廣済堂文庫『ヤスさんのゴルフ礼記』があった。同書から数十テーマを抜粋したいのでと、わざわざ東京の私を訪ねてこられた。森田さんの志に感動、私は無料奉仕での提供を約束した。森田さんはイラストのうまい友人に絵を頼み、カラー印刷でポケットサイズで20ページほどのエチケット・ブックを作った。消費税込みで30円。森田さんのコネのある多くのコースがフロントのカウンターに置くために2万部、3万部と購入してくれた。それだけのロットがあれば表紙にコース名やロゴ・マークを刷り込むことができた。森田さんのコネだけでは限度がある。DMを配ったら注文が増えてきた。「やっとトントンになってきました」などと、森田さんは東京の印刷所へ来るたびにいちいち律義に私のところへも仙台の銘菓を持ってご挨拶に来られた。

 始めて2年目あたりで一時期注文が来るコースは100カ所を超えた。私も陰ながら喜んでいた。ところがそのころからバブルがはじけ、ゴルフ場の経費節減が始まった。エチケット・ブックなどは真っ先にカットされる部類のものだった。それからは森田さんとは、年賀状と暑中見舞いだけのおつきあいになってしまった。

 お元気な森田さんにお会いできた喜びもそこそこに、私は仙塩ゴルフ倶楽部浦霞コースの得も言われぬ佇まいに目を奪われた。まず玄関、フロントの周辺。後にも先にもこんなに質素で、こんなに温もりのある空気をかつて経験したことがない。ハウスは往時この土地をあっといわせたといわれる新建築の洋館建て、いまはもうなかなか見られない古典的な館である。神戸GCに並ぶ現役最古参級の、しかも見事に丁寧に使い込まれ、磨かれたクラブハウスなのである。9ホールズの客数のためならこんなに快適な動線が可能なんだと感心させられた。18ホールズになると、クラブハウスはなぜこの五倍も十倍もの無駄な空間となり、無くもがなの虚飾がべたべたとなるのだろうか。

 

 

 塩釜の丘、上の原の9ホールズは四郎さん独特の線の太い男性的なうねりを連ねた痛快設計であった。四郎さんとのマッチはパーが3つで3勝6敗と大敗したけれど、ヨシとしなければならないだろう。もう1つ回って18ホールズにすべきなのだが、何しろ暑くて、森田さんのお体もある。

 炎天下から犬のように舌を出して上がり、浴室で汗を流し、食堂に這い上がると、森田さんの注文でテーブルに運ばれてきた「まず一杯」はビールではなかった。しっかり冷やされたワンショットグラスにしっかり冷やされた純米酒、浦霞「禅」。ゴクでもなく、グイでもなく、チビリとやった。惜しみ惜しみ喉に流し込む。舌の上で冷えを緩めると芳純な香しさがたち、豊饒な旨味が喉に染み渡る。ここまでの感動なら他の酒でいくども経験しているが、暑さにへたった体中の細胞が一つ一つプチプチと音を立てるように生き返っていくのが、筋肉のあっちこっちで面白いように感じとれる、この体感は初めてのことで、その後いまだなし。

 この日以来、ゴルフ場の客への応対に触れるたびに、クラブハウスを眺めるたびに、そして夜ごと酒をやるたびに、仙塩はありありと蘇ってくるコースとなった。

 その後もまた訪ねた。雑誌『ゴルフダイジェスト・チョイス』の名クラブハウス探訪シリーズに自信を持ってここを入れた。以下はその中の記述である。

 

 昭和のはじめ仙台市内には六ホールズのコースがあったが、形ばかり。ゴルフの愉快を知った大のおとなたちを満足させるものではなかった。全国各地にリンクスが誕生しつつあった。仙台にも本格的なゴルフ場を望む声があがったのは当然。名酒浦霞の蔵元第十一代、佐浦菊次郎を中心とする有力者たちが集まった。

 東京から赤星四郎を呼んだ。何箇所かの候補地を見て回った結果、赤星四郎が景勝松島を見下ろす塩釜の台地を「藤沢に似ているが大きな谷はなく、程ケ谷のように小さな谷が続くわけでもない。ヒリーでなく、フラットでなく、コースとして優れた地形。廣野の水のないカミングインと同じ」とたいへんに惚れ込んだ。

 資金難のためひとまず六ホールズで、仙台カントリー倶楽部が開場。やがて時局は不幸な時代へと急降下。戦争は終ったがコースは米軍に接収された。進駐軍が三ホールズを完成。昭和二七年に接収解除。佐浦菊次郎が社長となって仙塩ゴルフを設立、浦霞コースとして再開した。買い戻すにも、軌道に乗せるにも、相当の私財を注ぎ込んだと云われているが、今日に続く佐浦家はそのことを口に出したがらない。人柄としかいいようがない。

 十一代菊次郎が「酒もゴルフも同じ。量より質の精神」という理念を残した。十二代茂雄も先代に劣らぬ頑固者であり、ゴルフ好き。父の遺志を頑ななまでに守り通し、「損得は別。とにかく良い酒を」と云い続け、時流に乗らず純米吟醸法にこだわって絶品「禅」を世に送り出してみせた。一方、ゴルフ環境がどう舞い上がろうとぽしゃろうと、余計なものは持ち込まず、だいじなものは何ひとつ捨てずに、仙塩ゴルフ倶楽部を維持し続けた。

 その結果がこのハウスである。古いことは確かに古い、しかし古ぼけているのではない。しゃきっとしている。床も什器備品も毎日きちんと掃かれ、毎度丁寧に拭かれる。掃除ではなく磨きあげる、結果としてそうなっている。女性従業員たちは前から知り合いのような親しみのある応対で迎えてくれ、送り出してくれる。表情も言葉遣いも近ごろの接遇マニュアルなんていう形式主義のものからは生れない温かみだ。これまたその人の人柄そのものなのだ。

 

 

 いま社長は三代目、佐浦家十三代目の若い弘一さんが引き継いでいる。支配人もまた、前々代野窪善兵衛、前代拓治、いまの信一郎さんへと親子三代のつながりだ。ふたりの若い三代目はともにクラブハウスはこのまま残したいと思っている。残すものだと思い込んでいる。新しくしたほうが維持費が安くつくという計算もある。しかし現会員の中にも建て替えようという声はない。建て替えても得るものは安っぽいきれいさだけで、かけがえのないものを失うだけだと、みんな知っている。前の宮城県沖地震のときもつい先だっての地震のときも、建物はなんともなかった。

 雑誌『ゴルフダイジェスト・チョイス』が実施した日本のゴルフ百年記念「日本のベストコース」では、東北地区の選考委員たちが仙塩を「東北ゴルファーの心の故郷」と評し、ランキングの対象とは別個にその存在を記録に留めた。

 家が残っていてこそ故郷である。

 

 この原稿を読んでくれた仲間たちが行きたがっている。近々また仙塩を訪れる予定である。

 この後に青森までの運転があった。生ビールでは飲むわけにはいかなかった。ワンショットグラス1杯なら走る時間までに消えてくれるから飲めた。というより、じつはこの1杯の純米酒はまるで滋養強壮の1本のように効き、東北道をひた走る間、眠気は一度も感じることはなく、むしろ精気をいただいたようであった。

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