その年の暮れ、テラベイネンが東京よみうりCCでの日本シリーズに出場することが分かった。東京よみうりは当時のわが家からクルマで15分ほどである。奥さんのベロニカと娘のタイナも一緒だという。私は1週間仕事を空け、成田から成田まで、毎日のドライバー役をボランティアできないか、真剣に考えた。英米のファンなら部屋まで提供するのだろうが、狭いわが家ではとても無理。仕事も現役真っただ中の頃ゆえ、1週間会社を空けることもできず、儚い夢でしかなかった。
初日に7人で会いに行った。しかし、プレー前は煩わすことになる。練習もラウンド中もじっと黙って見ることにした。ジャンボ尾崎の全盛期、丸山茂樹が出てきた年で、主催者が2人を組ませた。ギャラリーの7割がたは彼らについていた。テラべイネン(『リンクスランドへ』の訳本ではテラバイネンとなっていたが、発音はテラベイネンだと分かった)はブラント・ジョーブとの組だった。この組にはわれわれ7人のほかには10人といなかった。時々ジャンボの組のホールからは歓声が聞こえてきた。一方こちらはパーをとった時に拍手すると辺りのマウンドや木立に響いて妙に大きな音になった。私たちの拍手にはプロは手を上げて挨拶を返した。そのつど顔まで向けられたら、この一団が手紙をくれたナニヤラクラブの連中かなと思われるところだったが、幸いプロは拍手に慣れているから、顔までは向けてこなかった。
十数人のギャラリーの中にジョーブの奥さんかフィアンセとおぼしきアメリカ人の美人と、少し離れてベロニカと幼いタイナがいた。彼女たちはギャラリーというよりもハイキングか植物ウォッチングを楽しんでいる風情であった。私は近寄っていって自己紹介した。するとベロニカは私のことを知っていてくれた。中国人系のシンガポール人だ。礼儀正しく、慎ましく、そしてタイナのしっかりした母という第一印象を持った。滞在は多摩センターのホテルだと言った。狭いけれど快適、食事は美味しい、クルマはタクシー。「ここはヒーリーなコースでアップダウンがあるから、タイナにはタフでしょう」と言ったら、ベロニカは「ピーターより楽です」と笑って答えた。
ラウンドが終わり、アテストをすませて、クラブハウスに戻ってきた。キャディと報道関係者とのやりとりがあり、それから数人のファンにサインをした。私たち一団はどこで声を掛けたらいいか、そのタイミングを見計らっていると、べロニカが旦那の腕を引っぱり、私たちを紹介してくれた。そこでやっと念願の握手ができた。
彼の「痛む脚」が気になったので、ここは10分ほどの立ち話で終えた。タイトリストのボールにサインを入れてみんなに1個ずつくれた。みんなで記念写真を撮ったのだが、この時のフィルムがなぜか行方不明になり、写真は見ずじまいになった。
翌年の春、静岡オープンの練習日、浜岡コースへインタビュアーでありライターである川野美佳さんにくっついていった。陳志忠との練習ラウンドについて回り、そのあとハウスでランチをともにした。
太平洋クラブ市原コースでのデサントではまたまた優勝してくれた。私がホームコースにしていた太平洋御殿場でのトーナメントは何度も応援に行った。ただし、彼の応援は週末を予定することが難しく、木曜か金曜に仕事を休んでいかなければならなかった。なぜなら、成績が芳しくなく、金曜日で帰ってしまうことが多かったからである。
1999年暮れに私の本ができて、翌年の秋、御殿場へ持っていった。筆ペンで
「寺米念様」
と縦書きのサインを入れて持っていった。それぞれの漢字に日本語の読みのローマ字とそれぞれの意味の英単語を書き添えた。彼は仏寺が好きだとどこかに書いてあった。「寺に立って祖国米国の安寧を祈念しているあなたの姿を漢字で書いた」と説明した。「日本でサインを求められたら今度から寺の1字を書くのはどうかな」と言うと、彼は興味を示し、食堂の一卓が「寺」の字の書き方教室になった。
仙台に日本語の読み書きができる友人がいるから、私の本の扉のところを読んでもらう、と本をしまってくれた。
私が試合会場で見た限りでは、テラベイネンは練習場で決まって端っこの打席を使っていた。食堂でも端っこのテーブルにつくことが多い。私にはそれには意味がありそうに思えた。ある時あえて聞いてみた。答えは案の定だった。「プロゴルファーは本来渡り鳥でなければならない」というのがテラベイネンの信条なのだ。「僕はどこへ行ってもビジターだから」と答えた。そして「真ん中はジャンボさんたちの打席」と笑った。この慎み深さは、私たちが人様のメンバーコースを訪ねる時の礼儀を教えてくれるものだ。
テラベイネンはゴルフバッグに、渡り鳥生活の中で磨かれたこうした慎みと、手に入れた鋼のような逞しさを入れて持ち歩いてきた。渡り鳥の処世は“When in Rome, do as the Romans do.” 郷に入れば郷に従えの心である。これこそがゴルフコースでいうところの“Play the ball as it lies.” あるがままにプレーせよ、なのである。
1打ごとボールのところへ歩いていく。そのライがどうであれ、すべてを受け入れて打つ。また歩いていく。その旅がゴルフである。テラべイネンは「僕のボールのライは僕自身のライなんだ。気に入るも入らぬもない。僕はそこに立つしかない」と川野美佳さんとのインタビューで話している。
私よりずっと回数多くテラべイネンを応援に行き、話をし、手紙をやりとりした日本人がいる。日本オープンで幸運にも彼についた茨木のキャディ、下間艶子さんだ。下間さんは毎年毎年兵庫県のつるやオープンへ応援に出掛けた。それは日本オープンの週を共に闘って、テラべイネンから「ツヤコは私のスペシャル・フレンド」と言われたその友情と信頼に応えるためだった。
あの1週間の苦闘と純真と涙の物語は、私のサイト、www.welovelinks.jp に下間さんが寄せてくれた読み物となっている。
日本オープン・チャンピオンの特典10年間シードは2006年が最後となった。